第1章 カイト (1)

午後十九時。
ニューヨークの夜はすでに氷の冷たさを醸し始めている。
季節はまだ冬が始まったばかりだ。
早々に沈んだ陽の光は名残も見せず消え、マンハッタンの一角にある部屋の窓ガラスを曇らせている。
この部屋の主、七瀬カイトは寝起きの頭のまま、ぼんやりと窓の外へ視線を投げた。
不夜城の夜は明るい。
ビジネス中心のこの街に住んではや数年になるが、年々眩しくなるこの光にカイトはいまだ慣れることができていなかった。
窓の外を見ていると、擦りガラス同様に曇ってしまった窓に隔てられているはずの外界と自分との境界線があやふやになる。
カイトは自分の瞳には眩しすぎる光へ目を細めると、ひそやかなため息をついた。
あと四時間もすれば今夜の仕事場へ出かけなくてはならない。
カイトはベッドサイドに置いてあった煙草を一本取り出すと、愛用のライターで火をつけた。
肺一杯に重たい白煙を吸いこんで吐き出す。
ふっと軽い息に黒い影をのせれば、その煙はさらに深い闇を湛えて消えていった。

「一体、いつまでこんな生活をつづけていくんだろうな、俺は。」

漏れた本音に苦笑を洩らし、カイトは凍りついた窓をわずかに開ける。
忍びこんだ夜気が指先を刺し、カイトの芯に現実感を呼び戻した。
今日もまた、閉ざされた夜が来る。
この不眠症を患った街で、カイトの見る光景はいつも同じだった。
息苦しい程の闇に塗りつぶされ、瞬きひとつしない夜空。
凍てついた恐怖が闊歩し、絶望だけがはびこっている街並みには沈む摩天楼がそびえたっている。
廃墟と化したビルの群れに飲まれ、壊され消えていくのは多くの希望だ。
はっきりと思い出すほどに悪意が輪郭を持ち、重たい罪の意識が塗りこめられていく。
これは悪夢と呼ぶにはおこがましい自らの現実だった。
カイトは小さく呻くと震える指先を窓枠に添え、ぎゅっと握りしめる。
(――頭が、痛い。)
後頭部を鈍器で殴られたような重すぎる疼きがカイトの思考回路を圧迫する。
体が軋んで、揺れて、立っていられない。
けれど、カイトにはその痛みも原因も気にしている暇などなかった。
――この仕事を辛いと感じたことなど、一度もない。
――自分が生きていくためには仕方なかったのだ。
そう何度も何度も自分に言い聞かせてから、カイトはさして吸ってもいない煙草を強くもみ消す。
揺れる視線の先、窓枠には火傷の跡だけが増え、もう数えきれなくなっていた。
カイトの脳裏へ、二度と帰ることのできない場所が浮かんでは消えていく。
しっかりしろと自分に言い聞かせたところですでに自立さえままならないのに、
今やカイトを支えてくれる人はどこにも存在しなかった。
目を閉じるだけで浮かびそうになる記憶を辛うじて留め、カイトは手にしていた煙草を灰皿へ落とすと、しっかりと蓋をする。
このところ思い出すことの多くなった想い出は、一人で生きるカイトにとってただの毒でしかない。
カイトは冷たい夜気から逃れるように窓を閉め、ゆっくりとその場を離れた。
静かになった部屋には自分の息使いだけが響き、無機質さを助長する。
カイトはわざと大きなため息をつくと、冷たくなったベッドのスプリングを無遠慮な仕草できしませた。
そろそろ今日の仕事について、詳細を確認しておかなくてはならない。
意識を無理矢理仕事へと切り替え、カイトはサイドテーブルから手に取った携帯のディスプレイをチェックする。
新着メールが一件――差出人にはカイトが所属している組織『アリアドネ』のメールアドレスが記載されていた。
文面には今夜、指定時刻になる前に一度、事務所へ来るようにと書かれている。
いつもならばメールで指定された場所へと直行するだけでいいのに、
わざわざ事務所へ寄れと言うからには、よほど機密性の高い案件なのだろう。
カイトは無意識に鋭くなった視線でそれを一瞥してから閉じると、わずかに重くなった気を無視してシャワールームへと向かった。
記載されていた時間まで、あまり余裕がない。
カイトは悪夢の残滓と些細な抵抗を手早く洗いながすと、いつもの服装に身を包んだ。
黒いハイネックのセーターに黒のパンツ。
腰には愛用の銃を入れておく革製のホルスターを装着する。
顔を上げ、やや長めの前髪を斜めに流したあとで、両目にはブルーグレイのコンタクトを入れた。
鏡に映っているカイトは百八十を超える長身痩躯をしており、体もそれなりに筋肉質だ。
そのうえ、特にハーフというわけでもないのにはっきりした顔立ちをしているから、
コンタクトの効果も相まって黙っていればハーフのモデルと言っても通用する容貌をしている。
だが、それだけだ。
今のカイトを形容するならばまさしく完璧な美しさを備えたアンドロイドと評する方がふさわしい。
人でも何でもない――『街の影』として生きるためにプログラムされた、ただの殺人兵器。
カイトは鏡からすっと目を背けると、手首に巻いた愛用の腕時計で時間を確かめた。
時計の長針は、もう二十時を越えようとしている。
少し、急がなくてはいけないだろうか。
カイトはニット帽を目深にかぶり、手に黒の皮手袋をはめると、廊下を足早に抜けた。
車のキーを手にしながらがらんとした部屋を振り返れば、そこらじゅうに散りばめられた光の瞬きが視界に虚しく映る。
カイトは部屋を出て後ろ手に玄関ドアを閉めると天を仰ぎ、背にしたそれへと凭れかかった。
足もとでじゃりっと耳触りな音が響く。
こんな風に輝きを失った果てのない夜が、一体いつまで続くのだろう。

「星は――静かな夜にしか歌わない。」

無機質にしか響かなくなった言葉が胸を切り裂いて、カイトのくちびるに血の色を滲ませる。
蘇りそうになった温かな音色に耳を塞いで、カイトは足もとのコンクリートを強く踏みしめた。
朽ちてしまった過去は取り戻せない。
優しさを孕んでいたはずの未来はあの日、生涯叶うことのない夢へと変わってしまったのだ。
遠く思い出す彼の存在は遙か遠く記憶の底にあって、今では顔もはっきりと思い出せないというのに、
声だけがいつもカイトのそばにあった。
(こんな薄汚い世界に生きている俺など、今更、誰が――。)
癒されることのない渇きに、心がざらつく。
カイトは胸の奥でいつもより重く響いた声を意識的に握りつぶすと、愛車の待つ駐車場へと一気に階段を駆け降りた。

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