第1章 カイト (2)

マンハッタンの片隅に佇む上品なバールの地下一階。
そこに地下組織『アリアドネ』はあった。
表向きは政財界の主だった紳士・淑女が集まる、いわばセレブリティの社交場だ。
けれど店の奥にあるドアを開ければ、そこには怪しげな暗闇と水槽をたゆたう小さな光しかない。
カイトは熱帯魚の水槽がいくらか並んだ通路を歩き、階段を下りて奥の扉を開ける。
この扉の向こうにこそ、アリアドネの中核となる事務所があるのだが、そこに詰めている人間は存外少なかった。
手にしていたドアノブから視線を外し、カイトは部屋の中を流し見る。
奥にある木造りの重厚なデスクにはかっちりとしたスーツ姿の女がひとり座っていて、
その脇の応接ソファには黒服の男が三人ほど腰かけていた。
今日は割と人数が多い方だ。
カイトはさして気にかけていない素振りで男たちの横を通りすぎると、彼女が座っているデスクへと歩み寄った。

「Good Evening. Ms.Taria.」
「Hi,Kaito.」

流暢な英語で挨拶を交わし、カイトは彼女の頬へ軽くキスをする。
彼女はいつものようにカイトの目を覗きこみ、親しげにその背をノックした。

「5分の遅刻よ?」
「すまない。少し、渋滞に捕まった。」

ぶっきらぼうに謝罪したカイトを、タリアが軽く腕組みしたままで睨む。
カイトはふらりと視線を泳がせてから首をかしげると、ジェスチャーだけで肩をすくめてみせた。
おそらく彼女にはカイトがわざと遠回りの道を選択していたことがバレているのだろう。
カイト自身、遅刻することをわかりきっていただけに、いざ視線でそれを指摘されるとまるで心臓を貫かれている気分になった。
特に今日は『重要な依頼』だから遅れるなと言い渡されていたのだ。
正直なところ、騙されてくれるとは思えない相手だったけれど、カイトだって伊達に十年以上飼われているわけではない。
カイトは少々居心地の悪さを味わいながらも、あえてそれを隠すようにしてタリアへと甘い瞳を向けた。

「そう、怖い顔しないで。」

務めて穏やかな口調で言えば、タリアが理知的な瞳をきゅっと眇める。
今まで数度見たか見ないかの渋い顔だ。
カイトがダメ押しの代わりにSorry.と告げると、彼女は両手を軽くあげてため息をついた。

「次からはペナルティを与えるわよ。」

背を向けたタリアは冗談ともつかない口調で言いながら、自らの机へ向かう。
そんな彼女にカイトも短くYes、とだけ答え、近くのソファへ座った。
カイトは長い脚を組み、ゆったりとした背もたれへ背を預ける。
そして若干の距離がある応接用のソファに座る同類を眺めながら、今夜の『仕事』へと思考を巡らせた。
今、カイトの手もとにある情報は今夜、ある会社の社長の命を狙うといった要点だけだ。
これだけならばいつもとさして変わらない。
自分がこの組織でやらなければいけない仕事――それはつまり、殺しだからだ。
目的さえ達成されれば、ここに至る経緯も、どういった理由から狙撃対象になったのかも、関係ない。
単純に狙って殺すだけであればそんなバックグラウンドなど知るだけ無駄という話なのだ。
それを身にしみて知っているカイトにとって、そんなことはむしろ重要視すべき点ではなかった。
殺しに慣れた組織がわざわざ狙撃手を呼び出し、直接指示を下す必要がある。
むしろここにこそ、自分が今回の仕事に関わる『本当の意味』があるのだろう。
こういった形の依頼は過去にも何度かあったが、そのどれもがあまり気持ちの良いものではなかった。
それを考えるとやはり気乗りはしないが、おそらくこの仕事にも過去の案件同様、なんらかの『力』が働いているはずだ。
拒否権など無いどころか、大げさでもなんでもなく、失敗すれば命はない。
そのくらいの覚悟が必要な『仕事』になることは、火を見るよりも明らかだった。
カイトは書類数枚を手にやってくるタリアの睫毛が落とす影を見ながら、今夜路上に浮かぶであろう赤黒い染みを思う。

『殺しは一撃で的確にやれ。獲物にはお前の血の一滴すら与えるな。』

カイトが十六の頃――義父がよく口にしていた言葉だ。
この義父こそが父・七瀬京也の恋人で当時、マンハッタンに名を馳せていた『アリアドネの死神』だ。
なぜこの男が父の恋人におさまっていたのかはカイト自身、今になっても分からない。
父はカイトの記憶にある限り、日本人らしい繊細さを持つ優しい人だった。
それに比べ、死神・ランサーは情の欠片さえ持たない目をしていたように記憶している。
二人には共通点などまるで無いように見えたのに、それでも父はランサーを愛し、とても信頼していた。
大切なはずの息子を彼にゆだねてしまえるくらいには――。
だが、その末路がこれだ。
父の死後、ランサーはその血濡れた手で昏い世界を教え、カイトを見事に自分の後継者として育てあげた。
彼から証拠の一切を残さない殺し方、獲物を一撃で仕止める方法など殺しのすべてを教え込まれたカイトの腕は
いまや多くの権力者や裏社会の人間を虜にしている。
対象に生殺与奪の権利も暇(いとま)も与えない――アリアドネの葬送者。
これが今のカイトの通り名になっていた。

「カイト、聞いているの?」

不意にタリアの声がして、カイトははっと我に返る。
反射的にその顔を見返せば、目の前に座る刃物のような美人はクールな視線を訝しげに歪めていた。

「どうしたの?いつものあなたらしくないわね。」

呆れた口調にカイトは小さく苦笑する。
すまない、と小さく答えると、タリアは黙ったまま、透き通った眼鏡の奥から数秒カイトを見つめ、小さく咳払いをした。

「今回はあなたの腕が一番の頼りなの。しっかりしてちょうだい。」

小言の似合わぬ唇を艶めかせ、タリアが書類に視線を落とす。
カイトは低くした声でああ、と了解の意志を告げると、一瞬だけ目を閉じ、まぶたの裏にある暗闇を見つめた。
(今夜は――長くなりそうだな。)
やがて部屋の中にはタリアの美しいアルトボイスだけが響きはじめる。
タリアの告げる『依頼内容』を聞きながら重いため息を堪えると、カイトは次第に情報整理へと没頭していった。

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