第11章 星砂の夢

一年後――。
悠斗は沖縄の西表島で生活を始めた。
星砂の浜がある、東洋のガラパゴス。
自然と人が共存して生きている島は、まだまだ未開の地が多い。
半年前、悠斗はドイツに一旦帰国し、先に帰国していたリヒャルトへ退職の旨を伝えた。
リヒャルトには一身上の都合とだけ言い張ったが、彼もそのあたりの事情は察してくれているのか、
悠斗のことを惜しみながらも詳しいことは聞かず、悠斗の申し出たとおりに会社から解放してくれた。
父とも、師とも慕っていた社長。
今でこそ会長の座に退いているが、社長だった彼は質実剛健で心優しく、また不正には絶対に屈さなかった。
その姿があの頃の悠斗には眩しくて、なれるならあんな人間になりたい、とよく思ったものだ。
けれど、そう考えていた昔の悠斗はもうここには居ない。
退職を決意した日、悠斗はそれまでの願いを捨てることに決めたのだ。
これから先の人生は自分の心が求めるままに歩いていく。
今まで、悠斗は随分とやりたいことを我慢してきた。
兄と別れ、離ればなれになった幼い日から、ひたすら家のために生きていくお人形に過ぎなかった自分が、やっと見つけたのだ。
本当の願いを――。
もうすぐ三月がやってくる。
夕暮れ時の凪いだ風は頬にひんやりと心地良かった。
兄ももう、この島に辿りついているだろうか。
この島はたとえ冬であってもドイツのそれよりも、マンハッタンのそれよりも温かいから、きっと凍えることはない。
自分も、兄も、ふたりとも――。
悠斗は星砂の浜に座り、手に小さな星たちを掬った。
ものがたりのように泣きはしないが、星砂たちはそれぞれに可愛らしい形をしている。
ちなみにこことは反対側に位置する月ヶ浜には泣き砂があるらしい。
悠斗は兄が遺した写真だけを頼りに西表島へたどり着いたが、まさかそんな風に浜が離れているとは思わなかった。
きっとこのことは兄も気づかなかったに違いない。
兄が流れるように書いた文字を思い出し、悠斗はふふっと微笑んだ。
空が燃えるようなオレンジから群青へと変わっていく。
この美しいグラデーションを、兄は悠斗の隣で見てくれているだろうか。

「これから先も、この島で、ずっと――。」

独り言のように虚しく落ちる言葉へ、悠斗は乾いた願いをのせる。
この生活は悠斗が自分の人生を生きるためにたったひとつ抱いた、強い祈りだ。
兄が亡くなってしまった今、財閥を背負うことができるのは悠斗だけ。
それを分かっていながら、悠斗は屋敷を捨て一人で生きることを選んだ。
龍安にも一緒に香港へ来ないかと言われたが、それも断った。
悠斗の中には龍安を慕う気持ち以外に、彼の持つものへの割り切れない気持ちがある。
そんなものを抱いたまま、悠斗は彼の優しさに甘えるわけにも、ついていくわけにもいかなかった。
悠斗が決めた答えへ龍安は寂しそうに微笑んでいたけれど、結局は何も言わず背中を押してくれた。
こうしてすべてを捨ててしまったところで、いずれ変化を求められる時は来るのかもしれない。
けれど、それでも今は、今だけは、温めていたかったのだ――兄がくれた情愛を、兄へと捧げた恋情を。
悠斗は切なさを逃がすように、細く小さな息を吐き出す。
閉じた瞼の裏で、なぜか悲しげな顔の兄が悠斗を見つめていた。

「兄さん――。」

悠斗が呼んだのとほぼ同時に、遠くからバタバタとヘリコプターらしきプロペラの回転音が響き始める。
悠斗は霞みそうになった視界を拭い、あからさまに嫌な顔を作ってから顔を発生源へと向けた。

「うおおおおい!悠斗〜!オレオレ〜!」

手をひらひらと振るかの香港マフィアの若頭に悠斗はわざと眉をひそめる。
意地、と言うには少し子供っぽすぎるけれど――。

「ったく。砂埃が舞い上がるし、
 環境保護の関係で怒られるから嫌だって言ってるのに。
 っていうか、オレオレ詐欺かよ。今どき流行らないっての。」

ぶつくさ言いながら、悠斗は無理矢理作った険しい顔つきのままで額に手をかざす。
しかしこうして時間を見つけて会いにきてくれる彼を、悠斗は嫌っていない。
凍土に住まう魔物と違って、よく知った龍安の手には温かな血が流れているから。
悠斗はわざとらしいため息をつきながら、ゆっくりとした歩調で自宅へと踵を返す。
どこか適当なところでワイヤーアクションをした彼は、きっと走って悠斗の自宅へとやってくるだろう。
同じ人間を愛し、同じ傷を負った、かけがえのない友人として。
悠斗は歩みを進めながら、海の遥か彼方へと視線を送る。
水平線の向こうでは消えかけていた太陽が完全に沈もうとしていた。
もうじき世界が幸せの歌に染まる夜がくる。
悠斗はセピア色に変わろうとしている懐かしい夕暮れを、これ以上ないほど純粋に、愛おしく感じていた。


                                                    I remember you forever...