第10章 真実 (3)

「髪飾りを、はずせ。」

不意に龍安が悠斗の体を離し、真剣な面持ちで呟いた。
悠斗が首を傾げると、龍安は悠斗の前に膝をつき、頭を下げる。

「俺の、ここにある髪飾りを解け。」

翡翠の飾り紐を指をさしながら頭を垂れる龍安の黒髪は豊かで美しい。
悠斗は脈動する翡翠の宝珠にそっと触れてから、カイトに聞いた呪いの話を思い出した。
たしか龍安は飾り紐を外すと精神が女性に入れ変わり、幼児退行してしまうはずだ。
そして飾り紐をつけ直せば、彼は最低六時間ほど起きてくれなくなる。
仮入室しているだけのこの部屋で龍安を六時間も眠らせるわけにはいかない。
悠斗は戸惑い顔を隠さず、頭を下げている龍安を見た。
けれど微動だにしない龍安は、空気だけで早くはずせと告げてくる。
龍安がここまで頑なになるということは、どうしてもこの場でやらなければいけないことがあるのだろう。
悠斗は半ば困った気持ちになりながらも、意を決して龍安の飾り紐を外すことにした。
しゅるりと音がして、龍安の髪の毛がその背へと広がる。
一瞬の間を置いて、龍安がゆったりと目をあげた。
いつもは漆黒をたたえている瞳が翡翠色を輝かせてこちらへ目を向けている。

『やっと、会えましたね。悠斗。』

以前会った時よりもずっと大人びた彼女が現れ、しとやかに正座した。
悠斗をまっすぐと見据え、口もとには淡い笑みをたたえている。
それはまるで清廉で慎ましやかな清流を思わせた。
呪いとは言っても、たった三週間やそこらでこんな風に変わるものなのか。
人の精神の成長を見せつけられたようで、悠斗は目を瞠るしかなかった。

『悠斗。私にはあなたに伝えなくてはいけないことがあります。』
「え?」
『あなたのお兄様。カイト様に言伝を頼まれましたから。』

思いがけない言葉に悠斗はさらに目を大きく見開いた。

「兄が、あなた、に?」

震える声で問えば、翡翠はゆったりとした様子で頷く。
兄が、あの幼かった翡翠に、何を言い残したのか。
悠斗はその姿と、底光りする翡翠の双眸を見つめながら息を飲んだ。

「兄は、あなたに何を?」
『あなたを、好きだったと。』
「僕を、好き?」
『そう。あなたを家族としてではなく、
 一人の人間として好きだったと、そう言っていました。』

静かな声音に悠斗の心が堰をきったように開かれる。
他人の口から聞く、悠斗への気持ち。
それはきっと悠斗だけのものだと思っていた気持ちと同種のものだった。
兄だという事実を思い出してから、家族愛のそれだと思っていた言葉。
死ぬ間際に言われた「愛してる」が形になる。
お前だけ――世界で一人の『悠斗』と言う人間だけに、彼は永久の愛を捧げてくれたのだ。
たとえ兄自身がこの世から消えてしまっても、この気持ちだけは悠斗のなかで生き続ける。
自分たちは実の兄弟だった。
でも、一人の人間として、互いの心を、魂を愛した。
この愛が穢れていると言うのなら、悠斗はそこに生きる価値さえ、きっと見いだせない。
そのくらい、ふたりは互いを求めてやまなかったのだから。
もしあのまま二人が離れずに育っていたならば、きっとこんなことにはなっていなかっただろう。
世間の兄弟よりも多少仲良しが過ぎる普通の兄弟に過ぎなかったはずだ。
しかし、歯車は狂ってしまった。
そして訳知り顔でこの結末を運んできたのだ。
運命とは実に呪わしいものだと思う。
悠斗は嗚咽を漏らしそうになるのを必死で堪えた。
喉を苦しいくらいに押さえ、もう一方の腕で自らの体を抱きしめる。
すると正座していた翡翠がふわりと立ち上がり、悠斗の体を両手でしっかりと抱きしめてくれた。

『悠斗。もう苦しまなくていいのですよ。
 お兄様はたとえ自分が死んでしまっても、あなたを愛せたことだけは後悔しなかったはずです。』
「どう…して?」
『だって自分が大切な存在を愛することが不幸なのだとしたら、
 愛というものの存在自体が、人を不幸にしてしまうとは思いませんか?
 あなたがお兄様に愛されたことを罪だと否定してしまえば、お兄様はいつまでたっても幸せにはなれません。』

にこりと微笑む翡翠は、悠斗の知らない女だった。
一体この人は誰なのだろう。
ぼんやりとそんなことを思う。
つい先日まで少女だった彼女から、まさか愛について説かれるとは思わなかった。

「そう、なのかな。」

囁き声で問えば、翡翠の彼女は大きく頷く。

『ええ。あなたは自分の気持ちに自信を持って良いのです。
 お兄様を否定しないであげてください。そしてこれから先も誰かを愛することを恐れないで。
 たとえ相手がお兄様以外であったとしても、あなたが人を愛することでは誰も不幸にはならないのだから。』

心の底にずんと響く声音だった。
翡翠の美しい言葉は悠斗の心を導き、癒し、白く明るい世界へと導いてくれる。

『さあ、もうそろそろ持ち主に体を返してあげなくては。』
「持ち主?」
『そう。龍安が私のなかで大暴れしています。』

くすくすと楽しそうに笑う人は、やんわりと目を閉じた。
彼女の封印には飾り紐が必要だ。
悠斗が飾り紐を手にその髪に触れようとすると、彼女はそれを片手で制した。

『大丈夫。多少なら無理はききます。
 ここはもうカイトさんの部屋じゃないのだから、眠るわけにはいきません。』

悠斗が心配げな顔をしてみせると、彼女はひときわ優しく微笑む。
一度大きく深呼吸をすると、数瞬ののちに彼女は気を失った。
床に倒れた彼女を、龍安を、悠斗は自らの腕に抱きあげる。
目を閉じた彼の顔はどうにも端正で、悠斗は束の間混乱した。
男のときでも女のときでも、美人でかっこいい。
そして時々優しい。(いや、いつもかもしれないが)
下らないことに気がついたと悠斗は内心で臍を噛み、ちょっとだけそっぽを向く。

「んぁ…。」

目覚めた龍安がものすごく間抜けな声を出して、悠斗は視線を戻した。
悠斗が首をかしげながら様子を観察すると、龍安はまだ瞳をうろうろ彷徨わせている。
それが本気の寝起き顔に見えて、悠斗は思わずぷっと噴き出した。

「お目覚めはどうですか?龍安。」
「……お目覚めって言うんじゃないわよ!疲れてるに決まってんでしょ!」

口を開いた途端に現れたオネエ言葉に龍安が青ざめる。
(なるほど、中性になったらこうなるのか。)
新しい楽しみを発見したと思いながら、悠斗はにっこりと龍安へ笑って見せた。

「帰りは僕が運転するから安心していいよ。」
「は?!そんなの私の部下にさせるからいいわよ。
 って、もうこれどうにかなんないのおおおっ!!!」

枯れた絶叫がこだまして、部屋には大きな笑いが溢れる。
こんな風に、この部屋で笑えるなんて――。
もっともっと悲しみに沈んでしまうだけだと思っていたのに。
今日知った真実が、悠斗を来たよりもずっと強くしてくれている。
悠斗は確かに、兄から深く愛されていた。
それがどんな嘘よりも愛しい。
悠斗は龍安の腕を自らの肩に乗せると、ふらつくその人を抱えながら玄関口へ向かった。
空いた手には二枚の写真をはさんだ絵本だけを持って、そっと部屋の中を振り返る。

「兄さん。
 僕は、あなたと出逢えて、あなたの弟で幸せでした――だからまた、必ず、どこかで。」

そう優しく呟いた悠斗の耳には後ろ手に閉めたドアノブの音だけがカチャリと小さく、そして重たく響いていた。

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