第2章 取引 (1)

午後十一時。
マンハッタンの冬はすべてのものを凍らせる。
カイトは腕に巻いた古いアナログ時計が予定時刻を示すのを横目でにらんでいた。
表情はいつもよりはるかに険しく、嗅覚は鋭敏にターゲットの匂いを嗅ぎ分けようとしている。
今夜のターゲットは製薬メーカーの社長だ。
タリアによればその会社はここ数年で売上を好調に伸ばしている企業だということだったが、
それだけにまた、依頼主も穏やかならぬ相手だった。
ターゲットに選ばれてしまったエーゲルハイム・ファーマシーの社長は敏腕であり、また身内にも厳しいと聞く。
根元をたどればいつの時代もよくある話ではあったのだが、このよくある話の中でカイトには一つだけ看過できないことがあった。
つまりそれは事の依頼主にほかならない。
通常こういった仕事を依頼してくるのはそれを意図する当人、もしくは近しい側近などが多い。
だが今回ばかりは勝手が違っていて、さすがに『アリアドネの葬送者』を本部に呼び出させるだけのことはあった。
そしてカイトに依頼が来た理由もまた、かの依頼主にある。
(よりにもよって、ルスカーヤを使うとはな。)
胸に凝る息をひそめ、カイトは皮手袋をはめなおした。
地下組織・アリアドネは暗殺を生業としているが、マフィアではない。
もちろん関わりが一切ないかと問われればそこはまったくの白ではないが、少なくとも組織自体の定義は違っている。
『粛清』
これを念頭に置いたこの組織は、ある意味セレブ御用達のテロ組織にも近いだろう。
権力争いや闘争の抑止力として闇の世界で恐れられ、また重宝されてもいる。
これが今、カイトの所属している不条理な組織の在り方だった。
だが、そんな在り方も時には表向きにしかなりえないということをカイトは知っている。
基本的にアリアドネは仕事を断らない。
たとえ依頼主がどれだけ汚れていたとしてもそれは変わらなかった。
変わるのは使役される狙撃手だけだ。
組織の階級にならい、ブレインの手により依頼主にふさわしいカードが選ばれる。
闇に隠された秀逸な担い手が集まるアルテミスか、優秀なヘリオスを戴いて蠢く軍隊的なマルスか。
一般の依頼主であればこのどちらかからブレインにより選ばれたカードを選択することになるが、
アリアドネの場合は一定の条件を満たせば、カードたちはその限りを取り払われ、
依頼主の手により自由に選択されることとなっていた。
とりわけアルテミスに属する狙撃手を使役できる客は二通りしかいない。
ひとつは組織の言い値で札束を積める人間。
もうひとつは強大で底の無い闇の力をもった社会の人間。
そのどちらかだ。

『ふむ、そうだな。それではアルテミスから【葬送者】をもらおうか。』

あの後、タリアがカイトに引き合わせたのはルスカーヤマフィアの中でも有力な一家のドンだった。
そして彼は山積みのトランプからジョーカーを的確に抜き取るようにカイトを選んだ。
もともとそのつもりでここへ来たのだろう。
悟ったカイトは躊躇を見せない足取りで習わしの通りに、男の前へと進み出た。
『いつも』のようにそこへ膝をつき、束の間の忠誠を誓う。
この時、これから命令が完遂されるまでにおけるカイトの飼い主が彼に決まった。
密度の増した空気のなかで、誓約が取り交わされる。
契約期間中、カイトはこの男をボスと慕い、主の求める何事にも従わねばならない。
ドンは膝もとの奴隷を上向かせるとカイトの顎へ指先を滑らせ、満足そうに、分かっているな?と口にした。

『失敗は許さない。』

彼の鋭い視線がそう言っている。
何度か似たような依頼をこなしてきたカイトですら背筋がゾクリとくる目つきだったが、
カイトは涼やかな美貌に宿る瞳の光を強く彼に向け、長い睫毛を伏せた。

『お前の働きに期待している。』

告げられた彼の言葉は互いの間へ軽く落ち、カイトに鉄製の足枷をはめる。
必ずあの男を仕留めろ。
本当の依頼主からもそんな声が聞こえてくるように感じられた。
依頼主のことを『大切な親友』だと言い募っていたドンは、一体何をして彼を親友だと称したのだろうか。
美しい金髪の下に隠されたドンの妖艶な笑みと凍てついた瞳が脳裏へ蘇る。
深いラグーンブルーがそこはかとない悪意を湛え、すでに温度を失ったはずのカイトの心をも凍りつかせた。
こうしてアリアドネにおける最高級の狗(いぬ)を選んだのはドンだ。
けれどその狗を確実に選べるよう、ドンへと依頼した『彼』こそがもっとも計算高く、
末恐ろしいマフィアなのではないか、と今この時もカイトには感じられていた。

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