第2章 取引 (2)

午後十一時十三分。
闇の中心には一人のアルテミス、その周辺には数人のマルスが待機していた。
この場所をターゲットが通過するまであと数分もないだろう。
カイトは身の内に宿るすべての感覚を研ぎ澄まし、対象が現れるのを待った。
光溢れる喧騒の街に潜んだ影の道は、すっぽりと彼らの存在を飲みこんでいる。
外から見るだけならば静かな裏道も、一足入ればあとは底無しの地獄だ。

「社長、だめです。車に戻って下さい。」

若々しい張りのある声が響いて、カイトは反射的に耳をすませた。

「今夜はいいんだよ。ビジネスとはいえ、息子とも呼べる君とこうして自由の国に来たのだから。
 たまには子供を遊ばせてやりたいと思うのが親というものだろう?遊ばなければ自由の女神に失礼だ。」
「そんなことを言ったところで、僕に社長の遊び方は通用しないですよ――って社長…っ!」

渋みを帯びた楽しげな笑い声と困り果てた若い声が交差する。
彼らの操っている言語はドイツ語だった。
カイトは壁の影から視線だけを声の方向に向ける。
若い声の主は見えないが、もうひとりの方――対象の姿だけは確認できた。
妙齢の優しげな男だ。
依頼書の中にあった写真はもう少し厳しい顔をしていたが、数メートル先にある対象の表情はとても柔らかい。
さきほど『息子』と呼んでいた人間がよほど可愛いのか、こちらに背を向け何度か頭を撫でてはからかっている。
黙っていれば、親子。
端から見ていてもそのくらいには仲睦まじかった。
やがて青年の歩みがとまり、ふてくされた顔をしているのが見える。
どうやら青年の方は日本人のようだ。
黒髪に丸い瞳が愛らしく、カイトまでとはいかないもののすっきりとした鼻梁が甘さの中に清廉さを加えている。
それがかえって二人の顔を似せているように思えた。
優しさと厳しさを合わせ持つ面差し。
しっかりとした内面を持ち合わせながら、愛らしさが際立つ表情だった。
昔、ひとりだけこんな顔をする人間を見たことがある、とカイトはほとんど無意識下で感じる。
しかし彼がこんな場所に居るはずはないし、何より今、自分は仕事中だ。
カイトは妙な懐かしさが胸に溢れそうになるのを堪えると、まっすぐに彼らを見据えた。
やるか、やられるかの世界で生きている以上、無駄なことに意識を囚われるわけにはいかない。
彼らが生身で街中を歩きだすことは予想外だったが、車の中を狙うよりはカイトにとって好都合だった。
おまけに対象が立ち止まっている今を逃すほど愚かしいことはない。
カイトは腰に装着していたホルスターから銃を取り出し、装填した弾丸を確認した。
数歩ほど忍び寄ったのち、カイトは対象へと照準を合わせる。
引き金に指をかけ、チャンスを窺うと同時に憮然としていた青年が声をあげ、ターゲットの腕を引っ張った。

「社長。別に僕はこの街に居る『星たち』となんて遊びたいと思っていませんよ。」

聞きわけの無い親をいなすように歩み寄り、彼は対象と視線を合わせる。
その腕は常に動いていて、カイトの照準をブレさせた。
カイトは内心で舌打ちをしながら、先に青年を始末しようと銃口を向ける。
すると対象が困ったように笑って、青年を無理矢理抱きしめた。
その間もふたりの体はチークダンスでも踊るかのように揺れている。
つくづく今夜は間が悪い。
カイトは仕方なく会話が途切れるのを待つことにし、背後に忍ばせたマルスへと合図を送った。
ため息が漏れそうになるのを堪え、会話に耳をそばだてる。

「そうわがままを言うな。これから先、私と歩くならば遊び方くらいは覚えておいてくれなければ困る。」
「でも…こんな騒がしいところで歌う星に、僕は興味なんてありません。」

どうやら対象は青年に女遊びを教えようとしていたらしい。
青年が毅然とはねつける態度はそういった清廉でないものを嫌う含みがあり、カイトはつい苦笑してしまった。
外見は人を裏切らないものだ。
それなりの年齢に見えるし、大企業に勤めているのだから宮仕えの一環として気にしなければいいのに、
彼にはそれが許せないようだった。

「僕にとっての星は静かな夜にしか歌わないっていつも教えてあげてるじゃないですか、社長。」

不機嫌そうに言う彼に、対象が苦笑する。

「それとこれとはまた話が違うだろう?」
「どこがです。僕にとっては一緒なんですよ、リヒャルト伯父さん。
 僕の星は静かな夜にしか歌わない。だから、僕は静かな夜があればそれでいいんです。」
「まったく…ハルト。お前、そういう時だけ伯父呼ばわりするのはやめなさい。
 本当に、お前の星好きと堅物なところだけは相変わらずで私はいつも困らされる。」

呆れ顔になったリヒャルトの腕のすき間から覗く横顔にカイトは息を飲んでいた。
にこやかな軽い笑い声を立てている青年の姿を、網膜に焼きつけんとばかりに凝視する。

『星は静かな夜にしか歌わない。』

遠い昔、カイトが温かな陽の光に満ちた世界で生きていた頃の記憶に、それを口にした彼が居る。
苦く忌まわしい記憶と柔らかな感情のせめぎ合いの中、カイトは照準を合わせていた銃の先が震えるのを感じた。
(違う、違う、違う。たまたま同じ台詞を吐いただけ。偶然同じ名前だっただけだ――!!!)
惑乱に迷いそうになる己の思考へどうにか蓋をして、カイトはグリップを握り直す。
もう考えてはいけない。
今のカイトはアリアドネで屈指のアルテミスで葬送者なのだ。
狩りの神が獲物を逃すなどあってはならない。
ましてや今夜、冥王の座に座っているのは他でもないルスカーヤマフィアのドンなのだ。
失敗は『死』を意味する。
カイトは青年を注視する視線に籠ってしまっていた力を抜き、息を殺した。
軽いにらみ合いの果てに歩き出そうとするリヒャルトの心臓へ火口を向ける。
サイレンサーの装着された武器へ慣れた衝撃が走り、数瞬のちに硝煙の匂いがカイトの鼻先をかすめた。
勝負は一瞬だった。
リヒャルトが肩口を押さえ、通りの石畳へと膝をつく。

「社長――っ!!!」

大きな悲鳴がカイトの耳を捕えたと同時にマルスがいくらかの援護射撃を行っていた。
カイトの銃弾がそれたにしても、マルスの銃撃はよけられないはずだ。
絶え間ない銃弾の雨が降り注ぐなか、カイトは息を殺して対象を凝視し、二度、三度と発砲する。
だがハルトと呼ばれていた青年は気丈にも反射に近い判断で近くの店にあった大きな看板を
銃弾が向かってきた通りへと投げ込んで、身をひそめていたカイトとマルスをひるませた。
細身の体のどこからあんな力が湧いたのかはわからない。
ただ、次に彼へ視線を戻した時には彼の姿もリヒャルトの姿も通りには見当たらなくなっていた。
しかも残っていたのは遺体ではなく、一人分よりもずっと多い血の跡だけだ。
それを見ただけでカイトは失敗したことを悟ると、すぐにマルスへと合図を送って走り出す。
暗殺者になって初めての敗北。
それがよりにもよって文字通りの命をかけた仕事になるなどと、カイトは夢にも思わなかった。

「くそっ。」

低く呻いた声がやけに響いて、カイトは車の背もたれへと体を預ける。
カイトを待ち受けるのは組織による制裁か、それともドン自らの粛清か。
いずれにせよカイトの未来に光は残されていない。
しかし、カイトにとって今はそんなことなどどうでもよかった。
もしかしたら、再会したかもしれない弟を傷つけた…命を奪ったかもしれない。
カイトは心の大部分をその疑念に奪われ、しばらくの間そこから動くことができなかった。

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