第2章 取引 (3)

襲撃に初めて失敗した夜、カイトはドンの前で跪いていた。
アリアドネの拘束部屋――そこには組織に仇なす者やアリアドネの戒律に背いた者、
そして重責の伴う任務に失敗した者が招かれることになっている。
カイトは後ろ手に手首を拘束されたあと数人のマルスに連れられ、かの部屋に入れられていた。
目の前の彼はロシアの闇社会における覇王でありながら、随分と若く見える。
おそらく三十二、三歳といったところだろうか。
マフィアの人間だとは到底思えない上品さが漂う金糸の髪、
ラグーンブルーの双眸と蠱惑的な厚みのくちびるが印象的だった。

「葬送者よ。お前がなぜ失敗したのか。言い訳があるなら言ってみるがいい。」

ドン・ガヴリロヴィチはカイトの頤を持ち上げると口もとをゆがめる。
契約の儀式のときには照明の加減ではっきりと見ることができなかった表情が
美しくひずんで、カイトをまっすぐに見下ろしていた。
冷え切った眼差しがカイトの薄い肌を射抜く。
ドンは手にした獲物をどう切り裂こうか、心のなかで算段しているのだろう。
愉しげな彼の双眸をカイトはしっかりと見つめかえしてから、静かに目を伏せた。

「いいえ。言い訳などありません。全ては私の不手際です。」
「何か言えば、命が助かるとは思わないのか?」

ロシアの冥王はカイトの怜悧に見える美貌を捕え、その相貌をきつく見据える。
けれどカイトは大人しく首を横に振り、再びドンを見返した。

「私にそれを望む権利はありません。」
「媚びを売る気も――?」
「はい。」

きっぱりとしたカイトの答えにガヴリロヴィチの嘲笑が返ってくる。
冥王は手にしたナイフの切っ先をわざとらしく指先で弄ぶと、滑らかな白刃をカイトの頬へ押し当てた。

「ふん。葬送者たる者が不手際を認め、己の命も惜しまぬか。
 潔いのは悪くないが、さすがにそれではお前を罰する私が面白くない。」

冷たい感触と底冷えした声がじんじんと体中へ響いて、カイトはガヴリロヴィチから目を離せなくなる。
本物の冷気がカイトの体温を奪っていくようだった。
カイトが息をつめたまま見あげていると、不意にガヴリロヴィチがカイトのタートルネックを引き裂く。
そしてあらわになったカイトの首筋から胸を一瞥すると、手の中にあるナイフで罪の烙印を一筋刻み、抉った。
カイトの呻き声を楽しむように、傷口から流れる赤い液体で肌に模様を描く。

「っ…く。」
「痛いか?」

歯を食いしばるカイトをなおもドンは気に入らないと言いたげに睨みつけた。
直後、胸にズキリとした痛みが走る。
遠慮のない痛みにカイトが自らの胸を見つめると、先ほどまで動きを止めていたはずのナイフがもうひと筋の傷を刻み込んでいた。
傾いだ十字架模様に抉られたそれは温みのある血潮をとめどなく流している。
深すぎず、浅すぎない傷は死ねない程度の痛みしか、カイトによこさなかった。
しかし、それならそれでも構わない。
贖うことのできない罪ならば、カイトはすでに数えきれないほど犯しているのだ。
ガヴリロヴィチにこうして嬲り殺されるのもその報いだと思えば、それも仕方ないと受け入れられる。
カイトは目を伏せたままくちびるを結ぶと、肩にかかりそうな黒髪を乱れた呼吸で揺らした。

「お前はこのまま俺に殺されたいと見える。」

頭上から降り注いだ低音に、カイトは頭を垂れたまま何も口にしない。
ドンが己の血肉でその罪を贖えというのなら、カイトにはそれに従うしか方法がないのだ。
否定も肯定もできる立場ではない。
それはドンも分かっているはずなのに、なぜか不服げだった。

「可愛げのない。」

舌打ちをした彼を、カイトはじっと見上げる。
それは暗に覚悟はできていると、ドンに伝えるためだ。
失敗した以上、こうなることは分かっていた。
それに――自分が今さら生き伸びたところで何にもならないことは分かっている。
ただ、唯一心残りをあげるとすれば、傷つけたかもしれない、殺したかもしれない弟のことだけだった。
(悠斗【はると】――。)
今まで記憶の中で大切にしてきた、宝物のような存在。
その彼を思い出す資格さえ、今ここに居る自分には無くなった気がしていた。
これを哀しいと思うことは罪なのか。
いや、哀しいと感じる資格もまた今のカイトには無いのだろう。
悠斗と幼くして別れたあの日。少なくともカイトは悠斗の兄である資格を失っているのだ。
その事実がある以上、カイトは悠斗に再会したところでもう何もしてやることができない。
けれど――たとえそうだとしても、やはり自分は悠斗を殺したりしたくはなかった。
後悔と罪の意識だけが増すなかで、虚ろになりかけていた視界が、不意に揺れる。
直後、頬で乾いた音が唸って、カイトは髪の毛を掴みあげられた。

「葬送者。お前の飼い主は誰だ?何を見ていた?」
「…っ。」
「私のことをろくに見もせず、お前は何を考えている?
 まさか諦観のみで飼い主に死を仰ごうとでも言うのか?お前にそんな権利があると?私も舐められたものだな。」

純粋な質問とも取れない苦みを含んだ声が響いて、カイトは虚ろな眼差しを再びガヴリロヴィチへと送った。
眼前のガヴリロヴィチはカイトの前に片膝をつき苛立ちを隠せない様子で、くちびるの端を上げている。
ドンの考えていることが分からない。
巡らない血を重く感じながら、カイトは自らの所有者の尊顔を仰ぎ見た。
カイト自身、今回の失敗を重く見ている。
だからこそこうしてドンから与えられる苦痛も死も従順に受け入れていただけだ。
それの何が気に入らないと言うのだろう。
なぜカイトが諦め、死を欲していると感じるのだろう。
それともマフィアは殺しがいのある気骨に溢れた人間でなければ殺す価値もないと言いたいのだろうか。
カイトが目を伏せようとすると、再びドンに髪を引っ張り上げられ、頬を殴られた。

「いいか、葬送者。その目を開けてよく聞け。
 私はお前に、償いとしてもう一度同じ人間を狙ってもらう。
 そうだな――日時と場所はこちらから指定しよう。
 その日までお前は自身の胸にある十字傷でも眺めながら、誰が飼い主かもう一度よく考えておけ。
 私に殺される以外のいかなる理由でも、死ぬ事は許さん。お前に安息の死などありえない。」

念を押されて、カイトは目を見開く。
冥王からはサタンの笑みが零れ、カイトの頭は無造作に地面へと放りだされた。
鈍い衝撃が頭の片側を襲う。
カイトが上体を起こそうととすると、それよりも早くガヴリロヴィチが立ちあがった。
一切の歪みもない、均整のとれた顔立ちがカイトの方を向く。
美形の悪魔は言葉を発することなくカイトを一瞥すると、そのまま黒いコートを翻し、拘束室の扉へと歩きだした。

「葬送者よ。私はもうしばらく、お前を生かしておいてやる。
 そのあいだに私は私の目でお前の目に宿る光が誰のものなのか、じっくり見せてもらおう。」

扉を出る直前、彼はそう言い残すと無機質なまでの音を立てて鉄の扉を閉めた。
(俺の目に、宿る、光――。)
不可解な言葉を残した男の声を反芻しながら、カイトは彼が残した傷跡を静かに見おろす。
傷口から流れていた血は完全に止まっていないながらにも固まり始めていた。
何度も、何度も、嗅ぎ慣れているはずの血の匂いが鼻につく。
カイトは濡れた感触さえ分からなくなったその痕を指先でなぞると、おぼつかない足で立ちあがった。
瞬間、足もとの地面が強く揺れ、カイトは思わずひざをつく。
恐らく体の方が思った以上にダメージを受けているのだろう。
カイトはその場にひざをついたまま、切り裂かれて地面に落ちていたタートルネックを拾うと軽く肩に羽織った。
座り込んでいる暇はない。
ドンに猶予を与えられてしまったこの命をどう使うか。
それをカイトはこれから考えねばならないのだ。
考えたところで実際にはどう使えるか分からないが、それでも生かされてしまった以上、生きていかなくてはならない。
そして来たるべきその日のために、カイトは備えなければならないのだ。
カイトが立ちあがろうとした瞬間、固まりかけていた血がいくつもの筋になって、床へと滴り落ちる。
しかしカイトはそれに構わずゆっくりと壁伝いに歩くと、片手で重すぎる扉を開けた。
(俺はもう、引き返せない。)
そう呪文のように心で唱えながら、カイトは今夜再会したはずの弟の姿を封印すると、再び非情な殺人者としての道を歩き始めた。

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