第3章 邂逅 (1)

ニューヨークにおける真冬の夜はある種の熱を持ち、今もカイトの身を焼いている。
最後の審判に似た夜からすでに一カ月半が経過していた。
だが、いまだにドン・ガヴリロヴィチは何も言ってこない。
カイトは胸に刻まれた十字傷のあたりを左手で軽くおさえながら、小さく息をついた。
先日受けた戒めの傷はそれなりに癒えたと言えるのに、その痕については赤く綺麗な形で残っている。
カイトは寒さに傷跡が痛むのを感じながら、ふとドンが言った最後の言葉を思い出していた。

『葬送者よ。私はもうしばらく、お前を生かしておいてやる。
 そのあいだに私は私の目でお前の目に宿る光が誰のものなのか、じっくり見せてもらおう。』

冷酷に言い放った彼の横顔が目に浮かぶ。
一体、ドンは何を見たがっているのだろう。
粛清を躊躇してなお、自分にこだわる理由がカイトには分からなかった。
ただでさえ、使えない道具は捨ててしまえ、というのがこの世界のならわしだ。
それをよりにもよってマフィアのドンが無視するなど、普通ならばありえない。
いくらカイトが葬送者と呼ばれるほどの腕の持ち主だからといって、彼がそんなものを重んじるとはやはり到底思えなかった。
彼の本当の目的がなんなのか。
それが分からない以上、カイトにはどうすることもできない。
もちろん分かったところで何もできないのかもしれないが、それでもカイトには無視できなかった。
油断すれば、足もとをすくわれる。
それが唯一、今までの人生でカイトが学んだ真理だったからだ。
カイトは熱く疼く胸の痛みを強く押し殺すと、陽の落ちた路地裏を静かに抜け出した。
吹きすさぶ風が頬を打つ。
かの傷が癒えてからのカイトはリハビリを兼ねる名目で小さな案件をいくつか言い渡されていた。
もちろんドン・ガヴリロヴィチの契約とは別に、だ。
兵隊に休みなどない。
所詮組織の手ごまにすぎないカイトには、容赦される時間も限られていた。

『殺しはやらなければ、すぐに腕が鈍る』

義父・ランサーがよく言っていたように、組織もそれをよく分かっているのだろう。
今回の案件はニューヨークに本拠地を置く経済界の重鎮エイベル・アンダーソンの警護だった。
アンダーソンといえば、ニューヨークではひきもきらない企業主だ。
こういった要人警護の場合、厳重さと表向き染みの無い経歴、統率のとれた軍隊行動を求められるため、
普段ならヘリオスとマルスの役目になる。
しかし今回に限ってはブレインから直接カイトへの指名が下り、着なれないスーツにカラーコンタクト無しで出勤させられていた。
高級ホテルのパーティ会場で歓談するエイベルの脇に立ち、カイトはごく自然な佇まいで秘書のフリをする。
主人の荷物を手に大人しく寄り添っているだけの美貌のオリエンタル人形に見せかけ、カイトは会場の隅々にまで神経を巡らせた。
自分が相手側のスナイパーであればどの隙を狙うか。
彼がカイトのそんな思考を求めていたのかは知れないが、ヘリオスの部隊を選ばなかったというのはそういう事だろう。
鷹の目をダテ眼鏡の奥に隠し、カイトはエイベルに従った。
そしてエイベルがいくらかの談笑をしながらシャンパンをあけた頃、それは唐突に起きた。
窓の外、バルコニーのある大きなガラス戸のすき間から一瞬光るものがカイトの目端に映る。
カイトはエイベルの腕をつかみ、彼をかばう格好で後ろへ引き倒した。
と同時にベルトに忍ばせた銃のグリップを素早く握り、引鉄を引く。
銃撃の音がしたのは一瞬。
よけきれなかった弾がカイトの頬をかすめていった。
ちりりと熱い衝撃が走る。
会場には大きな悲鳴があがり、カイトはもう一度敵の見えた周辺へ銃弾を撃ち込んだ。
だが、すでにそこへ人影はない。
カイトは安全を確認すると、かりそめの主人の無事を確認するため片膝をつく。
目前では無傷で上体を起こしていたエイベルが忌々しげな表情をしていた。

「まったく。パーティが台無しだ。葬送者、奴を追って始末しろ。」

氷のような声が響き、カイトは黙って目礼する。
同時にすっと立ちあがって、手早くその場をあとにした。
(まだヤツは近くにいる。)
ほとんど本能に近いカンを頼りに、カイトはホテルの非常階段へと向かった。
胸ポケットから携帯を取り出し、短縮番号に登録しておいた組織の直通電話へダイアルする。
それはワンコールもしないうちに返事を示し、彼女の声を聞かせてくれた。

「カイト?」
「ああ、俺だ。タリア。マルスをホテル周辺に配置してくれ。」
「襲撃ね。ターゲットは?」
「おそらく一人だ。始末の命令が出た。」
「OK。すぐに数人、そちらへ送るわ。」

走りながらの応援要請を手短に終えると、カイトは事前確認していたホテルの裏口を出て犯人の取りそうな経路をたどる。
偶然にもこの周辺は先日の一件で使った路地に繋がっていた。
見覚えのある経路を器用に辿り、物影を洗う。
ここからはスナイパー同士の戦いだ。
この程度の案件で失敗などするものか。
先日の苦渋が蘇りそうになる心を殺し、カイトは鍛え抜かれた動体視力と犬なみの聴力を研ぎ澄ました。
すると、背後からかすかに靴が砂利を弾く音が聞こえてくる。
辺りを窺い歩く音だ。
カイトは音の主との距離を耳で測ると銃を構えたまま振り返り、即座に相手の眉間を狙って一発を放った。
ひと時遅れた衝撃が左腕に走り、ほど近い距離からドサリという音が聞こえる。
カイトの方がわずかに早く発砲したようだった。
カイトはしばらく壁伝いに身をひそめ、注意深く周囲の様子を観察する。
生きているはずはないが、万が一ということもある。
それに彼の仲間たちが出てこないとも限らない。
一瞬の判断がすべての勝敗を決めるこの世界では、指先の動きひとつでさえ命取りになるのだ。
カイトは腕に巻きついている古びたアナログ時計の針を目だけで確認する。
先ほどの発砲から三十分ほど過ぎ、カイトはようやく動き出した。
敵の生死を確認するため対象へと近づく。
あと数歩ほどの距離に近づいてから対象が手にしている銃を蹴り上げ、脈を確認した。

「死亡確認。」

あえて冷ややかな囁き声を出し、カイトは立ちあがった。
殺しは何度もやっている。
胸など痛まない。
だが、互いの命を賭けた戦いに勝敗をつけたくはなかった。
カイトは遺体に対しやや長めに礼をすると、彼に背を向けその場から歩き出す。
ひとまず、組織へ報告せねばならない。
通りへの道すがらカイトはタリアに連絡し、遺体の身元確認と処理、マルスの撤収を頼んだ。
あとは組織からエイベルに連絡がいくはずだ。
すべて任せておけばいい。

「明日は我が身、だな。」

苦く口にしたカイトは重だるくなった腕を抱いた。
瞬間、左腕にひきつった痛みが襲い、カイトの表情を険しくさせる。
こんなもので痛みは感じない。
ただ、この程度の案件で傷を負うなどということは以前のカイトにはあり得なかったことだ。
十字傷をつけられる以前のカイトならまず、被弾することはなかっただろう。
カイトは存外深く抉られた左腕をかすめ見てからため息をつく。
これでは組織に帰った時、タリアから何を言われるか分からない。
先日の件でも相当こっぴどく絞られたのに、またかと思うとわずかに憂鬱だった。
怒られるだけマシだというのは分かっている。
そもそも組織を追い出されずに済んでいるということも奇跡だった。
だがそれもまた遠まわしに考えれば、ドン・ガヴリロヴィチの口添えで生かされているということに変わりなかった。

『誰が飼い主かもう一度よく考えておけ。』

それを今、カイトは痛感させられている。
組織内における立場はまだアルテミスの一員として扱われているが、こちらも結局はドンの契約者だからという理由だった。
通常ならあんな失態を犯してなお、アルテミスの一員として名を連ねていられることはまず無い。
マルスに降格され、自分よりも格下だったヘリオスにこき使われるところから始まるのだ。
これも命があるから言えることだが、カイトにとってはそんなことになるくらいなら殺された方がまだいい。
数年前、カイトがまだ組織に入りたてのマルスだった頃、その人目を惹く美貌ゆえに嫉妬されたり、
はたまた慰み者にされかけたりと、それは散々な目に遭ってきている。
ちなみにその頃のヘリオスの何人かには奉仕を強いられたこともあった。

『俺は女ではない。』

何度言っても彼らは関係ないと言って、カイトを階級の名の下に弄んだ。
オリエンタルな匂いがするくせに、顔だけは外人のモデル並みだと揶揄されてはばからなかった美貌は
亡き父に似ていて時折、妙な繊細さまで見せる。
それが逆に彼らの欲望を煽ってしまうものだから、カイトはその度、父に似すぎた自分の容姿を恨んだ。
まだ義父が組織で健在だった頃の話ではあるが、義父はそんなカイトの姿さえも愉しんでいたように思う。
本当にろくでもない人だった。
そこまで考えて嫌なことを思い出した、とカイトはまたひとつ白い息を零す。
路地裏の出口を通りすぎストリートに出てみれば、時間帯が深夜であるせいか人もまばらになっていた。
カイトは手近な街灯に寄りかかると、静かに煙草を取り出す。
ニューヨークは禁煙区域が広いとよく話題になるが、
これだけ人もまばらであればたとえ禁止区域であろうとそう見咎められることもない。
カイトは手にした煙草を軽くくわえると、安物のライターで火をつけた。
一息吸って煙を吐き出せばそれが寒さによる白さなのか、純粋な煙の色なのかカイトには分からなくなった。
指先にチリッとした痛みが走る。
空を見上げると小さな雪の花びらが舞い始めていた。
粉雪よりも存在感のあるそれは、かつて自身が住んでいた屋敷の庭にあった花を思い出させる。

「桜…。久しぶりに見たいな。」

もうかれこれ二十年ほど、郷里の地を踏んでいない。
十分にこの地に慣れたつもりでも、やはりふとした瞬間に故郷が懐かしくなるものだ。
それはたとえ骨の髄まで他人の血や悪意に染まってしまったとしても変わらないだろう。
自らの血が流れても、他人の血が流れても、カイトはそこになんの感情も見いだせずにいる。
そんな自分であっても生まれ育った土地を思い出すだけで、カイトはまだ自身が人間であることを感じられていた。
故郷を、思い出してはいけない誰かを、脳裏に浮かべているときだけは現実を離れることができる。
だがそんな微かな幸福でさえ、今では許されないものになってしまった。
本当に、機械仕掛けのお人形であればどれだけ楽だったか。
そんなつまらないことを時折胸の淵に浮かべては、その度に浮かんだ『もしも』を底の無い未来へと突き落とした。
(こんな、獣にも劣る殺人兵器に何が望める。)
血が滲むほど唇を噛みしめ、カイトは目を閉じた。
頭が重くて、痛くて、どうにかなりそうだった。

Next