第3章 邂逅 (2)

「あの、大丈夫ですか?」

柔らかな声音が不意に鼓膜を叩き、カイトは目を上げる。
途端、カイトのくちびるは半びらきになり、煙草の吸いさしがぽとりと足もとへ落ちた。
さきほどまで重たかった頭の痛みが消え、目の前が白い光に包まれる。
視線の先に佇んでいたのは先日対峙した黒髪に丸い瞳が愛らしく、甘やかな印象のある青年だった。

「…もしもし?」

彼は不思議そうに首をかしげ、カイトの表情を窺い見るようにこちらへ体を向けている。
それはまるで聞いているのか居ないのか分からないカイトの視界へ、無理矢理自分の存在をねじ込もうとしているかのようだった。
(なんで、どうして…。)
浮かびあがる動揺に心臓を締めつけられながら、カイトは喉にせりあがる苦しさを堪える。
けれど、震えるくちびるをどうにか窘めてやっと吐きだせたのはかつて馴染んだ音の羅列だけだった。

「はる、と…。」
「え?」

彼の名前を呟きかけたカイトはそれを隠すようにくちびるを引き結ぶ。
街灯のもと怪訝な顔でこちらを見る悠斗には、自分が発した言葉は聞こえていないようだった。
いや、聞こえていない方がいい。
カイトはすっと目を細めて動揺をなかったことにすると、やんわりとした拒絶を含むよそいきの顔を作る。
そしてクールな美貌にすべての感情を封じ込め、そのくちびるからはあえて英語を発してみせた。

「Don't worry.I'm OK.Thank you.」

下手に関わりあいになってはいけない、と強く自分に言い聞かせて出た声は心なしか固くなる。
それをなんとか誤魔化すようにふわりと微笑んでから、悠斗へ背を向けようとすると今度は彼にジャケットの裾をつかまれた。

「Really?………って、日本人じゃないんですか?黒髪に黒目だから日本人かと思った。」

中途半端な英語と柔らかい母国語を混ぜながら素っ頓狂な声を出す彼は、どうしてかとても不服げだ。
上質な黒いスーツに身を包んでいる彼は、フォーマルなイベントの帰りと言わんばかりに匂い立つ格好をしている。
それなのに顔に浮かんでいるのは襲撃の夜に見たふてくされた顔で、カイトは心なしか胸奥が弾き絞られるのを感じた。
あの日、路上にあった一人分以上の血だまりを見てからというもの、カイトはずっと気がかりだったのだ。
決意をもって記憶を封じ込めたとは言え、心中に燻っていた感情は確かで、カイトは悠斗の元気な姿を見れたことに安堵する。
カイトは不審がられないよう細心の注意を払いながら、彼を見つめて目を細めた。
また会えて、嬉しい。
けれどそれは言葉にできないから、別の言葉でカイトは悠斗の心配をはらってやる。

「Thank you, guy. But,I'm really Ok.」

心からの感謝を示しながら控えめな表情を作ると、今度は悠斗が腕組みをしてカイトを見据えた。
Mrと呼ばず、guyと呼んだのが気に入らないのだろうか。
憮然とした表情は気になるが、しゃんと立ってこちらを見ている彼の表情は好ましいと思う。
この分だと、少なくとも悠斗には怪我の後遺症などなさそうだ。
内心でさまざまに想いを馳せているカイトをよそに悠斗は依然、カイトをじっとりと見つめている。
そして何を思ったのか突然、失礼、と口にすると、負傷していたカイトの左腕を叩いた。

「いっ…た…っ!」
「ふふん。やっぱり日本の人じゃないですか。それに大丈夫じゃなさそうだ。」

してやったりといった声をあげて、今度は叩いた腕をさすってくれる。
いきなり怪我人の傷口をたたくなど、ありえない。
成り行きについていけないまま狼狽しているカイトに、悠斗はすっと手を差し出した。

「傷口を叩いてしまってすみません。
 僕は西宮悠斗といって、近くの薬屋に勤めているんです。
 なんだかあなたの怪我を見過ごせなかったので、声をかけました。一緒に来てもらってもいいですか?」

問いかけのくせに有無を言わせない口調で宣言をした悠斗は、差し出した手をさっさとカイトの右腕に絡めてしまう。
絡まったところから熱がじんわりと広がって、カイトには何も言えなくなった。
視界の端に見える手の平や、腕や、少し先を歩く肩先がとても大きく見える。
つい、大きくなったなあ、などとぼんやり考えてしまってから、カイトは内心で首を振った。
このまま連行されたら色々と困るではないか。
けれど悠斗はなんのお構いもなく、さっさとカイトを引っ張りその場を離れてしまった。
一体、いつの間にこんな強引な子に育ってしまったのだろう。
カイトの知らない二十年間が絡んだ腕にひしひしと伝わってくる。
結局、カイトは一生懸命な悠斗へ何も言えないままずんずんと引っ張られ、
気がつけばストリートの角にある『カフェ・アンダルシア』という店に連れてこられていた。
店の鍵を預かっているのか、悠斗は遠慮なく鍵を使って扉を開ける。
カイトはそのまま引きずり込まれ、悠斗が背後で扉を閉める音を聞いた。
店には薄明かりしかついておらず、人の気配はない。
店内を見渡せば薄明かりに浮かぶ内装はこじんまりとしていて、木製家具の匂いが心地良かった。

「ハル!居るかー?」

先を歩き始めた悠斗が大声で自分と似た『ハル』という名前の人物を呼んでいる。
横目に見た店の壁掛け時計は一時過ぎをさしており、十分な深夜だ。
にも関わらず、悠斗が頓着ひとつしないものだから、逆にカイトの方がその頓着のなさを申し訳なく思ってしまった。
それにしても時間帯を気にすることなく、こうも傍若無人に振る舞える悠斗はその『ハル』という人物とどういう関係なのだろう。
カイトはそんなとりとめもない事を考えながら、黙ったままで悠斗の隣に佇んでいた。

「ああ!悠斗さんじゃないですかー!どうしたの?また拾い物?」

階段を駆け降りる音がして、奥から悠斗とあまり年の変わらなさそうな青年が小走りに出てくる。
呑気そうな雰囲気とあどけなさの残る顔立ちを持つ彼は、一応まだ起きていたのかそれなりの身なりをしていた。
ご丁寧にカフェのロゴがついたエプロンをつけ、寝ぼけ顔をしている。
この様子だとどうもこのカフェに住みこみで働いている日本人のようだ。
仕事が終わってからそのまま居眠りしていたようにも見える。

「雪遥(ゆきはる)。これは拾い物じゃない。見たら分かると思うけど人間だから。」

いかにも慣れた感じで踊り出てきた彼を悠斗が軽くいなす。
ユキハルと呼ばれた人物は、悠斗とカイトの目の前へ立つと二人の顔を交互に見比べた。

「それは分かってるけど、変な時間に突然来るからね。また一大事かと思って。」
「違う。まあ、あんなことがそう何度もあったら僕としても困るけど。
 それより今は無駄口なしで、僕がここに置かせてもらってる救急箱出してきて。」

口早に告げる悠斗へ、ユキハルと呼ばれた彼が嬉しそうに笑って見せる。
カイトの目にはなぜだか彼の背後に大きく、ふさふさな尻尾が見えた気がした。

「はいはい。了解!」

慣れた対応でふたたび店の奥へと引っ込んでいった彼の背中越しに鼻歌が聞こえる。
悠斗は楽しげな雪遥の背を一瞥するとカイトの腕を引き、店の奥まった席に座らせた。

「手当て、始めますよ。」

至って当然といった風情で悠斗はカイトに声をかける。
表情にはさしてなにも映っていないのに、カイトの腕へ、肩へと這う悠斗の指使いはとても慎重だった。
カイトの上着にあるボタンを丁寧にはずしながら、傷に響かないようゆっくりと脱がせてくれる。
カイトはシャツ越しにハルトの体温を感じながら、ただ黙ってされるがままになった。
時折、目の端から彼を見上げれば生々しい傷口に顔をしかめている。

「あの、無理しなくていいから。俺は特に痛いとも思っていないし。」

気遣う言葉を投げかければ、悠斗の顔はますます険呑になった。

「何が痛くないですか。こんなに深い傷を負っておいて。」

悠斗がテーブルに置いてあった清潔で温かなおしぼりを間髪いれずに傷口へ当ててくる。

「………っ。」
「ほら、やっぱり痛いんじゃないですか。」

顔をしかめたカイトを横目で見ながら、悠斗はより一層むくれた。
さっきから痛いでしょう?と聞きながら、なんて容赦がないのだろう、とカイトは思う。
この世の怪我という怪我を忌み嫌っているかのような顔をしながら、傷口とにらめっこをする悠斗は本当に不服げだ。
けれどその表情とは裏腹に、傷口を清めてくれる手つきは本当に優しくて、労りに満ちている。
腕の傷口が終われば、次は頬の傷口を、悠斗がなぞるたびに伝わってくる振動がカイトには切なかった。
カイトは久しぶりに味わう感情の波打ち際へ、幼かった日の悠斗をそっと浮かべる。
あの頃から、何も変わらず、温かくて愛しい弟。
いつも、いつも、二人で居られたあの頃は泣きたくなるほど幸せだった。
引き裂かれる最後の瞬間も、引き裂かれたあとも、ずっと想っていたのは悠斗のことだけだ。
もう二度と会えないと思っていたから、今、悠斗を間近に感じられることがとても嬉しい。
たとえもう、自分のことを覚えていなかったとしても――。
(悠斗、会いたかったよ。)
そう言えたらどんなにか、この苦しい気持ちは軽くなるかわからない。
けれど、薄汚れたこの身ではもうそれもできない。
だからこうしてこの広い街で再び会うことができただけでも、きっと奇跡的なことなのだ。
それならば一瞬であっても巡り逢い言葉を交わすことを許されたという運命に、感謝するしかないだろう。
カイトは頬に触れる弟の指先へかつてない安らぎを感じながら、やがて静かに目を閉じた。

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