第4章 雪の夜 (1)

雪はしんしんと、確実に降り積もりはじめていた。
ストリートの石畳をうっすら白く染めているそれは、心なしかカイトの歩みを遅くする。
別に滑るのを恐れているわけではない。
ただ、薄く積もった雪に自分の足跡がくっきりとついてしまうのが怖かった。
道の先には街灯のオレンジがまばゆい白に反射されている。
うしろを振り向けば、今自分が刻んだばかりの足跡が見えるはずだ。
けれどきっとそこに刻まれている足跡はどす黒く、何よりも汚いに違いない。
(まだ血の色じゃないだけマシ、か。)
どこか自嘲する笑みが口の端を彩って、カイトは灰色の息をついた。
このまま夜闇に紛れてしまえば、カイトの存在などせいぜい影にしか見えないだろう。
元来、カイトはその程度の存在なのだ。
居ても居なくても変わらない、使われてうち捨てられる存在。
しかしその日がくるまで、カイトは確実に人の運命を狂わせ続けなくてはいけなかった。
苦しいと、辛いと思った事など一度もないのに。
そう思うのになぜか今夜はそれが嫌になるくらい胸をしめつけてきて、カイトの呼吸をことごとく奪おうとする。
おまけに胸の傷までもがじくじくと膿んだ痛みで存在を誇示しはじめ、カイトを打ちのめした。
短い息を吐きながら立ち止まる。
弾んだ肩先に目をやれば、悠斗の真っ黒なコートを雪の粒たちが彩っていた。

「苦しい――。」

微かな息で確かな音に変わった本音は白い静寂の中に舞い落ちる。
浅い呼吸は整うどころか、より浅さを増していた。
なぜこんなにも痛いのか。
分かるようでわかりたくない。
分かったら今まで築いてきたすべてが崩壊するように思えた。
弱い、みっともないとカイトをあざける自分自身が数歩先に佇んでいる。
カイトは明滅を繰り返す幻影に目を細め、ほとんど本能的に近くの街頭へと縋っていた。
(苦しい、苦しい、苦しい――。)
馬鹿みたいに溢れる弱音が恐ろしくて、目を、耳を塞ぎたくなる。

「大丈夫ですか?」

不意に呼びかけられて振りかえると、そこにはどうしてかダッフルコートを着た悠斗がいた。
カイトが視線だけでなぜ?と問いかけると、悠斗は答えずにカイトの腕を自らの肩にひっかける。

「別に。言ったでしょう。風邪でもひかれたら困るって。それに途中で倒れられても困る。」

興味なさそうに言いながら、悠斗はカイトの手を熱い体温で温めてくれた。
苦しさがほんのちょっと和らいで、息がうまくできる。
ゆっくり歩調を気遣いながら歩く悠斗はカイトにとって、ひどく甘やかな存在に見えた。
もう関わってはいけないのに。
そう思ってもカイトはうまく悠斗を振りほどけなかった。

「家はどこなんです?」
「え?」
「家です。僕があなたの家まで送ります。」

横目でにらみながら言う悠斗にカイトは固まってしまう。
家に来させたら最後だ。
カイトの理性が警鐘を鳴らす。
殺人を犯すことを生業とする人間のアジト、まして組織の息がかかっている建物だ。
見知らぬ人間が来たらどうなるかわからない。
カイトは悠斗の肩にかかっていた手をおもむろに離すと、強く首をふった。

「ありがとう。でもそこまでしてもらう必要はないよ。
 本当にちょっと寒さが傷に堪えただけだから、もう一人で帰れる。」

突き放すとまではいかないなりに、有無を言わせぬようカイトは空気だけを張り詰めてみせる。
やんわりと肩にかかっていた腕を離し、カイトはくちびるに弧を描いた。
絶対に巻き込んではいけない。
いつも生と死の境界線上に居るカイトと悠斗では生きる世界が違う。
悠斗はカイトの空気が切り替わった刹那黙ったものの、また強い目でカイトの瞳を見据えてきた。

「だめです。嫌とは言わせません。」

強情をそのまま声にした口調で悠斗が主張する。
カイトはそれでも聞くわけにいかないと首を横に振るが、悠斗も悠斗で視線を動かそうとはしなかった。
眉ひとつひそめずにただまっすぐ、カイトを、カイトだけを見据えている。
それが秘密を隠し通そうとする心までもを見抜いているようで、カイトは間もなく目を伏せた。
悠斗が深い息をついたのが聞こえる。

「僕は、あなたに、カイトさんに親切にしようとなんて思ってませんから。」

ストレートな言葉選びがカイトの胸に突き刺さる。
カイトは目を開けてまじまじと悠斗を見返すと、今度は悠斗が視線を流した。

「今さらですけど僕、あなたがホテルのパーティ会場で発砲したの、見てたんですよね。
 それと冷たい表情で足早に出て行くのも。もちろん、あなたはミスター.アンダーソンのSPだから
 主人を守るためにしたことかもしれないけれど、相手が発砲しないうちに撃ったあなたの銃は声を上げなかった。
 普通のSPはそこまで気を利かせたサイレンサー付きの銃なんて使わない。一体あなた、本当は何者なんですか?」

探偵さながらに言い募った悠斗は静かに凪いだ目をカイトに向け、カイトの様子を窺っている。
随分とよく観察されていたものだ。
カイトは今さらながらに自分の冒したミスを指摘され、臍を噛む。
今回の護衛については指示された際、オフィスに寄るよう通達されなかった。
だからそのまま現場に赴き、いつも使っている銃を使ってしまった。
手になじんだ銃の方が遥かに精度が上がる。
もちろん狙撃の上級者であればその精度も誤差程度のことではあるが、
胸の傷のせいで三週間ほど実地を離れていたカイトにとってそれは誤差の範囲ではなかった。
己の甘さやここ最近の自己管理不足がつくづく嫌になる。
銃を変えられなくても、せめてサイレンサーさえはずしていれば。
カイトは思いながら一度天を仰ぐと、真正面から悠斗を見据えた。

「それは質問?それとも脅し?」

できるだけ穏やかな声で聞く。
すると悠斗がやわらかな口もとを不敵な形に歪めた。

「どちらがいいですか?脅しかただの質問か。
 僕の言うことをきいてくれるなら、ただの質問にしますけど。」
「質問にしてくれと言ったら?」
「そうですね。じゃあ、僕をあなたの家に連れて行ってもらいましょうか。
 そして僕が良いと言うまで僕を通わせて、あなたの動きを監視させてくれること。」

面白がる笑みを口もとに浮かべて、悠斗はカイトを見上げた。

「なにを――。」
「雪遥にもしたって言ったでしょう?あれと同じです。
 何も言わず、僕の目論みに加担してくれ、そう言っているだけですよ。」
「でも、あれは冗談だと…。」

言いかけたカイトのくちびるに人差し指をたて、にっこりと笑う彼の双眸は本気だった。
雪遥を脅したことはお笑い草になるとしても、こちらの場合そうはいかない。
自分の命は良いにしても、下手をすれば悠斗の命だって失いかねないのだ。
カイトが口を開こうとした時、悠斗が強引にそれを遮った。

「カイトさんがこれを脅しに変えたいなら僕も無理は言いません。
 けど、一応僕にだってそれなりのバックボーンはあるんです。
 なんの根拠もなくあなたを脅している訳じゃない。それだけは言っておいてあげますね。」

ゆったりと構えた悠斗はすでに記憶のなかの優しい弟ではなかった。
駆け引きに長け、確実な狩猟をする猛禽類だ。
カイトが人殺しのために持つ目を、悠斗は策略のために持っている。
悠斗のバックボーンは分からないが、それでもどこかの計算高い男が使っていた黒い社会の一員かもしれない。
怖いわけではないが、もしドンと繋がっていればそれはそれで厄介だった。
カイトは胸の中でジーザスと呟いてから、軽く息をつく。
特にキリスト教徒ではないが、今夜ばかりは彼を本気で恨みたいと思った。
崇高なはずの父なる神でさえ、カイトの人生に平穏などという言葉は意地でも与えてくれないらしい。

「わかった。傷が治るまでなら了承しよう。
 ただし、絶対に部屋には泊めない。それでいいか?」
「そうですね。本当は二十四時間張りつきたいところですが、
 怪我人に無理強いはしたくありませんし、それで良いことにしてあげましょう。」

ため息をつき、交渉成立とばかりに悠斗が頷いた。
カイトはそれに遅れて頷き、交渉成立を認める。
これで賽は投げられた。
しかし同時にカイトは思ってもいたのだ。
これは好機だと。
悠斗からリヒャルトの情報を聞き出し、『その時』に備える。
あの夜の責任は自身で取らなくてはならない。
そのためだけに本気で断ろうと思えばできたはずの条件を、カイトは甘んじて受け入れたのだ。
愛しい弟はカイトを利用する。
カイトは愛しい弟に利用されるフリをして、彼を利用する。
先ほどまで温もりに溢れていたはずの関係がどうしてこんなにいびつなものにならなければいけないのか。
それを今は分かりたくなくて、カイトはわざと深く考えないようにした。
カイトはふたたび悠斗の肩を借りると、マンハッタンはミッドタウンにある自分の部屋を目指して歩き出す。
タクシーを止めて乗り込めば、あとは消えかけのまばらなネオンが過ぎていくのみだった。

『お前の目に宿る光が誰のものなのか、じっくり見せてもらおう。』

街明かりのなか、はからずも脳裏にドンの低音が響く。
その瞬間、カイトはなぜか彼が言った言葉の意味を知る日は近いのかもしれない、と直感的に感じ取らされていた。

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