第4章 雪の夜 (2)

雪の夜から一週間が過ぎた。
共に帰った夜以外は約束通り部屋に泊まることもなく、悠斗はほぼ毎日ミッドタウンにあるカイトの部屋へと通ってきている。
カイトは一日と開けずにやってきては、今日も甲斐甲斐しく働いている悠斗の後ろ姿をぼんやりと眺めた。
たった一週間しか経っていないのに細々とカイトの世話を焼く悠斗の姿はすっかり部屋に馴染んでいて、カイトを困惑させている。
(こんなはずではなかったのに――。)
あの夜の彼を思い出せば、カイトは一方的に悠斗から監視されるものだとばかり思っていた。
仮に監視まで至らなかったとしても、やはり部屋のものや動向をそれなりに偵察されるだろうとは予測していた。
だがその予想はことごとく裏切られ、今では流されるまま穏やかな時間を重ねてしまっている。

「悠斗。そんなに働かなくていい。
 それに俺の様子を見に来ているだけなら毎回食事を作る必要はない。」

二日ほど前から昔のように呼び捨てできるようになった悠斗を相手に、カイトの心はかつてないほどに和らいでいた。
しかしそれを悟られないようわざと感情ののぞかない声で言えば、悠斗は振り返って首を振った。

「僕が好きでやっているんです。カイトさんの指図は受けない。」

片手には玉ねぎ、片手には包丁を持った姿できっぱり言い放たれて、カイトは肩をすくめる。
ただの監視対象のために随分と事細かな世話を焼いてくれるものだ。
この一週間、悠斗は始まりの夜に見せたような表情を一切カイトに見せていない。
それどころか部屋にやってくるとすぐにカイトの傷の具合を見て、得意の置き薬を使って処置してくれる。
食事は必ず準備してくれるし、時には掃除や洗濯までしてくれた。
秘書という職業柄のせいか、悠斗は基本的によく気がつき、手際よく何でも一人でこなしてしまう。
たとえばカイトがちょっと時間をかけてやる洗濯物の後片づけなど、カイトの三分の一の時間で終わらせてしまうのだ。
監視、というにはどう解釈したところで解せないものがある。
だが、苦い顔をしたままでも本人が頑張ってくれるのだからカイトにはなにも言えなかった。
第一カイトが断り文句を言えば、悠斗はいつでもぴしゃりとはねのけるのだ。
まさにさっきのように――。
カイトはベッドを背もたれにして、部屋の中を見渡した。
もともとひとりで暮らしていて生活に執着のなかったカイトの部屋には物が少なかったが、
この一週間のあいだに悠斗が運んできてくれたもののお陰で随分と人間の部屋らしくなっている。
哀しいくらいに暗く冷たい洞窟のようだった家が、今では夕暮れの陽光の方が似合っていた。
けれどそれは決していつ死んでもいいと心に覚悟を持っていなければならない暗殺者の部屋ではない。
だからカイトは漠然とした不安を募らせるようにもなっていた。
ずっとこうしていたらそのうち死ぬのが惜しくなってしまうのではないかと。
優しさに甘え続けていれば暗殺者としての自分は死んでしまい、二度とあの道に戻れなくなってしまう気がする。
確かに望んで進んだ道ではないが、すでに汚れた手を持ってしまった自分には戻ることも他へ行くこともできはしない。
それに仕事のできない命に価値など無い、と義父からも散々教え込まれている。
ただでさえ自分の存在は実体のない『影』でしかないのだ。
組織がなければ、仕事が出来なければ、カイトは本当に価値のない透明人間になってしまう。
そんなことが悔しいわけじゃない。
辛いわけじゃない。
けれど、虚しいとは思っていた。
カイトはやるせない想いを殺す代わりに、強くくちびるを噛む。
するとぷちっという音がしたのち、遅れて鉄さびの味が口内に広がった。
ちっとも、痛くない。
この程度の痛みなんてカイトの心には少しも響かなかった。

「あ!ちょっと、何やってるんですか!」

盆に二人分の食事をのせて運んで来た悠斗が大きな声を出す。
妙に慌てた仕草の彼は手近なテーブルへとそれを置き、ベッドのそばに座っているカイトへと駆け寄った。
カイトの顔を上げさせ、ウェットティッシュで傷口を押さえる。
強制的に上げさせられた瞳で悠斗を見れば、彼は思いきりしかめっ面を作っていた。
再会してから何度も見たそんな表情でさえも、今のカイトには新鮮で眩しい。

「傷を増やすのはわざとですか?」

怒り口調で言いながら、悠斗がきつい顔でにらんでくる。

「――ごめん。」

素直に謝ると、悠斗は俯いてため息をついた。
どうしようもない、といった色がそこに滲んでいて、カイトは心の底から申し訳なくなる。

「あのね。カイトさん。傷が増えたらその分、僕がここへ来るのが長引くんですよ?
 それでもいいんですか?それともカイトさんはそんなに僕から監視されていたいんですか?」
「ちが…」

そう否定しかけた次の瞬間、カイトは思わず口を噤んでしまっていた。
視線の先に居る悠斗は怒っているはずなのに、カイトを見つめるその瞳がなぜかひどく悲しそうに見える。
再会してから見たこともない表情。
それがますます大きくカイトの心を揺り動かした。

「すまない。」

自然と謝罪の言葉が零れ落ちる。
同時に膝をついて目線を合わせている悠斗の眉がわずかにひそめられた。
なんの偽りもなく、計算もなく、カイトから溢れた許しを乞う雫(ことば)がふたりのあいだへと染みていく。
涙でつくるよりも、血でつくるよりも熱く濃い色の染みは、濃密さを保ったままそこへと広がった。
数瞬の沈黙が落ち、悠斗は口の端を大きく歪める。
そして呆れたように頷くと、カイトのくちびるからウェットティッシュを離した。

「次はありませんから。」

可愛げも愛想もなく淡々と紡がれた言葉が胸に痛い。
さっきまで跪いてくれていた悠斗はさっさと立ち上がって、カイトを見下ろしていた。
表情からはすでにカイトを謝らせた感情が消えていて、なぜか寂しくなる。
彼は監視と言っているが、実際にはここへ来る必要などないのかもしれない。
あるいはその必要があったとしても、こんな風に頻繁に来てカイトの世話まで焼く必要はないはずだった。
だがもし、これが無くなったとしたら――?
そう考えただけでカイトは胸の底が凍りつく思いがした。
そんなことは考えたくない。
思うほどにカイトは愕然とし、心は温度をなくしていった。
いつの間にこんな、溺れて――。
愕然とするほどの深い絶望感に、カイトの思考が回り出す。
するとそれを遮るかのように、頭上でパンっ、と手を打ち鳴らす音がした。

「食事、冷めてしまいますから、早く食べましょう。」

カイトを見下ろした悠斗は言うだけ言って背を向ける。
カイトは反射的にその背を追って立ちあがると、のろのろと凭れていたベッドから離れた。
間続きのダイニングには二人で使うのにしては手狭なテーブルがある。
けれどこの一週間、カイトと悠斗はいつもそこで譲り合って食事をしてきた。
小さくても、不便でも、監視されていても、幸せだった。
カイトはそこから香ってくる料理の匂いに凍っていた心が溶けるのを感じる。
悠斗がここに来て作ってくれるのは必ずといっていいほど和食だ。
メニューとしてはオーソドックスなものが多かったが、どれも丹精こめて作られた家庭料理だと思う。
カイトは悠斗に引かれた椅子へ座りながら、今日の夕食を眺めた。
見た目にもつやつやの白米は心を浮き立たせるし、具だくさんの味噌汁は嗅覚から食欲をくすぐる。
おかずにと用意された小鉢入りの肉じゃがは人参とグリンピースの彩りが映えていて可愛らしい。
そして懐かしい香りのする漬けものもご飯のお供として存在感を際立たせていた。
こんな風に郷里を懐かしめるような献立を立ててくれる人間など、きっと悠斗以外にはいないだろう。
そう考えるだけで、カイトは五感が蕩けてしまいそうだった。
口に含めば一瞬で消える綿あめのような幸せだ。
優しくて、美味しくて、もっと味わっていたくなる。
カイトが甘く微笑んだまま食卓をじっくり眺めていると、何を思ったのか悠斗が唐突に口を開いた。

「次にあんなことをしたら、僕はカイトさんの監視期間を無期限で延長しますから。」
「――?」
「だから、さっきみたいにまた自分を傷つけたりしたら、僕がずっと監視しにくるって言ってるんです。」

思いがけずきっぱりとした宣言に、カイトは言葉を失った。
こんな申し出はあまりにも理不尽――いや、お人よしすぎやしないだろうか。
嬉しくないかと言われれば難しいところだが、これじゃまるで本当に看護しに来ているだけになってしまう。
本来悠斗が掲げていた目的は、カイトの動向監視と調査だったはずだ。
それを忘れていようはずもないのになぜ今、悠斗はカイトの体を気遣うようなことを言い出すのか。
カイトにはまったく見当がつかなかった。
衝撃のままに口もとを押さえるカイトを悠斗はきっと睨みつける。

「別に親切ではありません。あなたに何かあったら僕が困るからです。」

そう言った悠斗の拳とくちびるはわずかに震えていた。
いつでも気丈に振る舞う悠斗が何かの感情を押し殺しているように見える。
それが証拠に悠斗が紡ぎ出している微動はまるで言いたくても言えない何かを隠している時のそれに見えた。
目を逸らし、沈黙をやり過ごす彼はいつもと違って頼りなげにも感じられる。
言葉とは裏腹な心を、悠斗の体は雄弁に語っていた。
(優しくて、愛しい――俺の弟。大切な悠斗。)
けれど悠斗は、カイトが兄であることを知らない。
それだけに、カイトは悠斗にかけられる言葉をいくらも持ってはいなかった。

「そうか…ありがとう。
 今後は気をつけるようにするよ。悠斗の仕事が長引かないように。」

精一杯の言葉に淡い微笑みを乗せる。
これ以上ないほどに愛おしく思うのに、カイトはその気持ちに蓋をしなければならなかった。
視線の描くまま、カイトはやんわりと悠斗を見返す。
するとその肩からはこわばりが消え、高さがなくなっていた。
同時に悠斗の震えも止まり、その代わりにさっきよりも背筋が伸びている。

「分かってくれたなら、いいです。」

静かな声だった。
震えこそないものの、やはりいつもよりずっと頼りなげな音色に聞こえる。
耳に響き落ちるだけで胸が痛い。
痛くてちぎれそうな音だった。

「食事に、しようか。」
「そう、ですね。」

短い会話をして、二人はそれぞれに箸をとる。
窓の外は日暮れの気配が消え、不夜城の明かりがぽつりぽつりとつき始めていた。
また――夜が始まろうとしている。
いつ、終わるともしれない漆黒の気配がすぐ近くまでやってきていた。
星が、歌うのを、悠斗とふたりで聴いてみたい。
カイトは優しい味を口に運びながら、改めて自分の道の苦さと叶うはずのない夢の味を噛みしめていた。

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