第5章 闖入者 (1)

その夜、兄弟はキッチンに並んで後片付けをしていた。
さして多くもない食器を弟が洗い、兄が拭く。
会話がないふたりのあいだには流れる水音と、小さく皿がぶつかる音だけが響いていた。
蕭然(しょうぜん)とした夜だと思う。
今までこんなことはなかったから、余計にそう感じるのだろう。
わけもなく切ない夜は今まで経験した何よりも、カイトの身を、心を切り裂いた。
胸の十字傷が疼く時よりもずっと、ずっと、痛い。
いたたまれない想いを募らせたカイトがため息をつきそうになったとき、思いがけず玄関のチャイムが鳴った。
(こんな時間に、誰だ?)
カイトは念のため悠斗に動かないよう告げ、玄関の扉まで近づいていく。
足音を殺しながらたたきへ降りると、同時にドアの向こうから声がした。

「おーい、カイト?居るんだろ?開けてくれ。お前にいつものやつ持ってきてやったから。」

大きくかかる声にカイトは眉根を寄せる。
この声には覚えがあった。
悠斗が来るようになる前、時折付き合いで呼んでいたケータリングサービスのバイトに違いない。
名前は劉龍安(りゅう・ろんあん)と言い、香港からのしがない留学生と聞いている。
トータルすれば十回会ったか会わないかだが、彼のバイト先へ宅配を頼めばたいてい彼がやってきた。
またその訪問回数のうちの七割くらいは、彼が自発的に来ていたというだけでもあるが――。
否応なしに覚えさせられた声で正体がわかったところで、カイトは呆れ顔を作り、鍵を開ける。
すると龍安が扉のすき間からひょっこり顔を出し、ハーイ!と呑気に手を振った。

「龍安、今日も何も頼んでないぞ。」

渋い声で言うと、龍安は分かりきっているといった表情で大きく頷く。

「いいじゃない。いつものことなんだし。それにどうせカイトだって一人寂しくしてたんでしょ?」

ニヤリと笑う顔は無駄に若々しく、爽やかだった。
すっきりと整った眉に凛とした瞳、笑むだけで明るさが際立つ彼は、豊かな黒髪を美しい飾り紐でひとまとめにしている。
後ろでくくる形のこの髪型は彼が好んで着ているアオザイによく似合っていて、カイトから見てもなかなかの美人に見えた。
おそらく夜闇に紛れれば女性と言われても疑いようがないだろう。
ほっそりとした雰囲気の彼は淡く薄めた品性さえも纏っている。
以前、カイトは龍安に対して『お前がたまに女に見える』と指摘したことがあるが
その原因となっている服も髪型も実家で受け継がれている伝統であるため変えられないのだと言われた。
表向き、貧乏苦学生だとは聞いているが、そんな話を聞けばやはり実際は違うのだろうとカイトには思える。

「寂しくしてる、は余計だ。」

カイトがあからさまに表情をゆがめドアを閉めようとすると、龍安はこともなげにそれを止めドアの内側へ滑り込んだ。
わざとらしいくらい傷ついた顔をしながら、龍安はさらっと靴を脱ぎ、廊下へ足を踏み入れる。
唯一、日本人らしい習慣としてカイトが取り入れているこの行為もまた、龍安はとっくに承知だった。

「カイト、相変わらずノリ悪いよ。いい加減、俺に心を許してくれても良くない?」
「なんで俺がお前に…」
「ああっ。俺が熱心に通ってきてるの分かっててそういうこと言う?」

むくれた顔をカイトへ向ける龍安を、カイトは軽く手で払うようにして部屋の奥へ追いやる。
つれない態度のカイトを龍安はわざと恨めしげに見つめた。

「カイトは本当に意地悪だ。」

子供みたいな言い草に、カイトは頭を抱えてため息をつく。
後ろ手に玄関の鍵を閉めながら、うるさい、とだけ言うと、カイトはそのままキッチンへと向かった。
まさかこんな夜にあんな闖入者が来ようとは。
龍安はカイトの何が気に入っているのか、出逢った時から妙に懐いている。
最初の頃こそ、料理を持ってきて他愛のない話をいくつか玄関先でする程度だったが、
そのうちサービスと称して料理を多めに持ってくるようになり、挙句の果てには上がりこむようになった。
カイトがそんなに食べれないからいいと断り続けても結果は同じで、結局彼は頑としてそれをやめなかった。
自由気ままで人の話や都合は一切聞かない。
それこそ記憶の悠斗よりも弟気質だった彼をカイトは鬱陶しいと思いながらも、いつからか受け入れるようになっていた。
たまに会えば軽口をたたきあい、時に罵りあいながら笑う。
そんな下らないやり取りがカイトの心を和ませていたのは事実だった。
もちろん屈託のない彼自身の気性も嫌いではない。
それなりに大切な存在だとも思っている。
だがカイトの抱えた荷物は大きすぎて、いまだ龍安に対しても完全には心を許すことができずにいた。
何より長年の大きな心残りであった『悠斗』の存在が龍安の弟気質により思い出されるせいで、
カイトは彼の存在を素直に喜べない時もままあった。
失った弟の代わりにはできない。したくない。
そう思ってきたがゆえに実の弟がそばに居てくれる今、カイトは改めて彼と悠斗との違いを感じ、龍安の位置づけに戸惑っている。
薄情だとは思うが、血に勝るもの、ましてやカイトが長年切り捨てられなかったものを上回ることは何者にもできない。
カイトはシンクの前に立って不安げに様子を窺っていた悠斗を一瞥すると声をかけた。

「あの、な。悠斗。申し訳ないんだが、ちょっと来てくれないか。」
「お客さん、ですか?」
「ああ。俺の監視に来ているお前にも一応、要注意人物ではないことを教えておきたいから。」

建前に近い理由を口にすれば、悠斗は表情を曇らせる。

「そうですか。別にカイトさんの交友関係まで疑うつもりはありませんが。」

あえて硬い口調で答えた悠斗を、カイトは苦笑して見下ろした。
悠斗がカイトを本気で監視しようとしていないことは知っている。
しかしその名目でここへ来てくれている以上、カイトは悠斗にその仕事を全うしてもらう必要があった。
カイトの監視が彼の周辺で仕事として認められているのかはわからなくても、
もし仕事として認められているものなのだとしたら、悠斗にはきちんと結果を残してもらいたかった。
そうしなければ、いずれ悠斗はここへ来れなくなってしまうかもしれない。
カイトにはそれが、嫌だった。
悠斗を包んでやることはできないのに、それでもそばに居てほしい。
わがままばかりが増長する心を、カイト自身も持て余し気味なのは否めなかった。

「まあ、そう言わずに、な。」

言い含める声音に大切な弟は渋々といった顔で頷いてくれる。
カイトはものの弾みに見せかけてから、弟の頭を撫でた。
小さな頃、ふてくされた悠斗をあやすとき、よくやっていた行為だ。
悠斗の柔らかな髪質は変わっておらず、指のすき間に心地良い。
その感触こそ、カイトがこの世で好きなものの三つに入るだろう。
龍安の黒髪もさらりとしていて嫌いではないが、やはり悠斗のものが一番だった。
カイトの表情に甘やかな笑みが浮かぶ。
悠斗は束の間ぼんやりとしていたが、すぐ我に返ったらしい彼はカイトから勢いよく目を逸らした。
横顔をうかがい見てみれば、頬や耳はほのかに赤くなっている。
それが可愛らしくてカイトは頭に置いた手をポンポンと動かすと、反対の手で悠斗の手をひいた。
ゆったりと歩いてダイニングに入れば、龍安が気配に気づいてこちらを振り向く。

「遅かったな…って、え?!」

龍安は自分以外の客なんていないものだと思っていたらしい。
呆気にとられた表情で二人を見比べ、しばし呆然としている。
カイトはそれに構わず、弟の手を引いて龍安の前まで連れていった。

「悠斗。あれが俺の……友人…の劉龍安だ。」

相変わらず、龍安は固まったままで動かない。
悠斗は目を伏せたままくちびるを固く引き結び、微動だにしなかった。

「龍安。こちらは俺が今の仕事で関わっている、西宮悠斗くんだ。」

そこまで言ったところで、固まっていた龍安が口をぱくぱくさせる。

「さっき、俺の友人って言った?!」
「は?」
「さっき間はあったけど、カイト、俺のこと『俺の友人』って言ったよね?」

まったく脈絡のない返しにカイトが困っていると、今度は急に龍安が抱きついてきた。
首にすがりつくように抱きしめられ、カイトはより困惑する。
何度も嬉しい嬉しいと言って、カイトを離そうとしない龍安はまったく遠慮がない。
ごつごつしたマッスル系の男ではないのが唯一の救いだが、やはり突然こんなことをされては暑苦しい。
それに悠斗の手前もある。
カイトはこれ以上ないほどに忌々しげな顔をして、龍安を引き剥がした。

「こら!龍安!悠斗に挨拶が先だろうが。」
「えええっ。いいじゃない。単なる仕事仲間でしょ?」
「何を、言って――あのな、龍安。一応念を押させてもらうが、悠斗は俺の、大切な客だ。」

呆れたとばかりに龍安を睨みつけるカイトに対して、龍安は構わず上機嫌でにこにこしている。
その様子を目の当たりにして、悠斗は淡く困惑しているようだった。
それを目の端で捕えながら、カイトは眉間のしわを深くする。
コイツには常識というものがないのだろうか。
無理矢理カイトは龍安の手をひき、悠斗の前へと立たせた。
不服そうな龍安を無視し、カイトは悠斗へ頷いて見せる。
悠斗は最初こそ黒目がちな瞳を大きく見開いていたが、すぐによく鍛えられたビジネスマンの表情を作りだした。

「初めまして、ミスター・龍安。先ほどカイトさんよりご紹介に預かりました
 エーゲルハイム・ファーマシーの西宮悠斗です。こちらには薬の斡旋で通わさせていただいていますが、
 ミスター・龍安も薬をご所望の際はぜひ遠慮なく僕におっしゃってください。
 カイトさんのご友人ならば特別に割引させてもらいますから。」

名刺を出しながら完璧な英語で話す悠斗の横顔は、まさしく世界を股にかける有名企業の秘書の顔だった。
ここに通っている言い訳も即席にしては完璧に聞こえて、カイトは薄く笑みを浮かべる。
たとえ兄バカだと言われようが、こういった姿を見れば我が弟ながらに誇らしい。
対して龍安はあからさまに考え込む表情で、並んだ二人を見つめている。
気づいたカイトが龍安の腕を軽く小突くと、彼ははっと我に返って名刺を受取った。

「あっ、ああ。申し訳ない。俺は劉龍安って言います。
 香港からのしがない貧乏学生なんだけど、ここにはバイトのケータリングでちょくちょく来てて。
 カイトさんとは顔なじみって言うか客とバイトっていうか…、あっ。そう!
 だから友人なんて呼ばれたの初めてで、つい嬉しくなってさっきは失礼しました。
 こちらこそこれからよろしくお願いします、悠斗さん。」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします、ミスター。」

悪気のない笑顔で言う龍安に、悠斗はビジネスライクな態度を崩さず答え、手を差し出す。
続いて龍安も手を差し出して、二人は握手をかわした。
どこかの国の首脳同士が交わす、形式上のような握手。
カイトはやや不安になったが、それをあえて空気には乗せなかった。

「じゃあ、そろそろ座ろ…」
「悠斗さん。せっかくですから、ミスターはやめて龍安って呼んで下さいね。」

言いかけたカイトの声を龍安が遮る。
彼の表情はにこやかなのに、どうしてか違和感が残った。
思わず悠斗を見ると、悠斗は悠斗で作ったような笑みをまだ顔中へ貼りつけている。

「龍安、ですか。」
「ええ。その方が嬉しい。カイトの大切なお客様は俺にとっても大切だから。」
「そうですか。では僕もあなたと仲良くなれるよう龍安、と呼ばせてもらいます。」

普段通りの柔らかい声音にはなんの温度もない。
カイトは二人を交互に見ながら、二人を引き合わせたことを後悔する。
おそらく、この二人は根本から反りがあわない。
そんな気がして、カイトは二人に挟まれたまま、しばしの時間を居心地の悪い気持ちで過ごした。

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