第5章 闖入者 (2)

夜も更けたというのに、カイトの部屋はいまだ妙に賑やかだ。
狭いテーブルには龍安がケータリングで持ってきた料理が所狭しと並べられ、
床にはいくつかの空き缶が転がっている。

「やっばい。俺、もう飲めない。」

へべれけになりつつある龍安を、カイトと悠斗はため息交じりに見下ろしていた。
いつもなら悠斗とふたりで静かに夜を過ごしたあと、彼を見送って、一人になる時間だ。
それなのに今夜はなぜか二人してダメ留学生の介抱をしている。
あの凍りついた時間が終わった後、龍安は無理矢理に酒盛りを始めてしまった。
『悠斗さんとの出逢い記念パーティー!』という名目を掲げ、龍安は持ってきた料理やお酒を披露する。
龍安のバイト先は香港料理を扱う店だ。
当然持ってこられた料理もケータリング用に作られた香港料理で、品数には龍安の頑張りが垣間見える。
前菜にはクラゲ・チャーシューとバンバンジー、メイン料理には赤い光沢が美しい皮むき車えびのチリソースや
青梗菜が散らされた干し貝柱の煮込みがあった。もちろん、同じ東洋圏では欠かせない米料理も忘れず、
軽く焦がした香りが魅惑的なチャーハンなどもある。
ちなみにデザートは杏仁豆腐で、これはひとまず冷蔵庫にしまった。
正直、夕食は済んでいたから食べる気は起きなかったのだが、それでも張り切っている龍安をむげにはできず、
帰ろうとした悠斗にも無理矢理頼んで、ここに居てもらった。

「おい、龍安。」

カイトが声をかける。
眠そうな空気で薄目をあけた龍安は、面倒くさそうにむにゃむにゃと何ごとか言っている。

「起きて下さい。帰らないと。」

今度は悠斗がカイトを後押しするように龍安の手を引っ張った。
すると龍安は何を思ったのか、悠斗に勢いよく抱きついてくる。

「悠斗さんももう少しここに居ましょうよ〜。」

根っからの幸せそうな声に、悠斗は今日一番の渋面を作った。
さりげなく龍安の腕を外しながら、眉間に深くシワを刻み込む。
それを見たカイトはふたりのそばで嘆息をつきながら、この嘆かわしい状況を呪った。
よもや龍安の酒癖がこんなに悪いとは思ってもみなかった。
今夜飲んだ酒の量で言えば、せいぜいビール三缶くらいのものだ。
カイトと悠斗はあまり乗り気ではなかったから一缶ずつをちびちび飲んでいたのだが、
龍安は二人の様子を気にすることもなく、次々と煽っていた。
普段の涼やかな彼とはまるで違う姿にカイトは苦笑するしかない。
カイトはこれ以外の顔でもう一つだけとんでもない顔を見た事はあるが、それはあくまでも事故だった。
ちなみに原因は龍安の髪に結わえられている飾り紐にある。

「ねえ、悠斗。ちょっと龍安に仕返ししてみようか。」

わざと悪戯っぽく言うと、悠斗が訝しげな顔をする。
カイトはその表情へ苦笑だけを返すと、ゆっくりとした手つきで龍安の髪に指先を伸ばした。
さらさらの質感がなめらかな黒髪だ。
悠斗のものとは違ってやや硬質なところが男だということを感じさせる。
忍ばせた指先が飾り紐に到達し、次の瞬間、しゅるっと解ける音がした。

「ひゃっ!」

叫んで跳ね起きた龍安の髪がばさりと広がる。
肩よりも十センチほど長いそれは女性の手入れされたそれよりも艶めいていた。
やがて髪の重さに耐えかねたのか、龍安が俯く。

「龍安…?」

カイトが呼びかけると俯いていた龍安が顔を上げる。
そしてしばらく宙をさまよっていた瞳がカイトを捕えた途端、そこに涙をため始めた。

「カイトさんのばかあ。それ、取らないでってお願いしてたのに。」

第一声に今度は悠斗が驚く番だった。
まるで声が女のものに変わっていて、喋り方が子供のようになっている。
『これは二重人格か何かか。』
そう言いたげな顔で、悠斗はカイトを見つめていた。

「あのね、どうも龍安の一族には呪い、みたいなものが掛かってるらしいんだ。」
「呪い?」
「そう。本人は弱みになるから他人には絶対言いたくないって言ってたんだけどね。
 飾り紐が外れると精神が異性のものに入れ変わってしまうんだそうだよ。
 おまけに彼の場合は異性側の精神の成熟度が歴代の人間より劣っていて、幼児退行までしてしまうらしい。」

言いながらカイトはさきほど龍安より没収した飾り紐を悠斗に渡す。
呪いの話を信じられないといった相貌の悠斗は、手にある飾り紐と龍安とを交互に見つめた。
飾り紐には深い翡翠色の珠がひとつと浅い翡翠色の珠が三つ連なっており、紐自体には丹念な編み込みがしてある。
年季の入ったそれは紐の色こそくすんでいたが、宝珠に関しては年月を感じさせない透明度があった。
特に深い翡翠色の珠は見ている者の心を吸いこもうとするような引力を感じさせる。
カイト自身、その紐を初めて手にとった時は何か自分の中にある昏いものを吸い出されそうで怖かった。
そもそも呪いの類は信じていなかったが、実際にその効果を見せられれば誰だって信じざるを得ない。
カイトは隣に座る悠斗を脇目に見ながら、呪われた龍安を軽く撫でてやった。

「おい。どうしようもない悪戯っ子はお前か。」

小さな子どもに、妹に語りかける姿でカイトは跪くと、立てた膝のうえに右ひじをついた。
大きな手を頭に乗せ、ゆっくりと動かしながら龍安の顔をまんじりと見つめる。
すると龍安はその瞳が怖かったのか、小さく口を開いて、ごめんなさい、と呟いた。

「人の家で悪さばかりする子はいらないよ。
 少しは大人しくすることを覚えなさい。返事は?」
『……はい。』
「よし、いい子だね。」

カイトはわざと兄さんぶった口調で言ってから、やんわりと龍安を抱きしめてやる。
それは幼子に対するただ優しいだけの抱擁だった。

「随分慣れたお兄さんぶりですね。」

黙っていた悠斗が無表情で口を開く。
カイトは一瞬胸の奥がひやりとするのを感じたが、それをおくびにも出さず微笑んだ。

「ああ。俺にも昔、弟が居たから。」
「弟が?」
「そう。もう今では会えなくなってしまったけれど。」
「どうして…」

そう言いかけて、悠斗が反射的に口をつぐむ。
眼前で龍安を胸に座るカイトが眩しそうな顔で悠斗を見つめていた。

「もし、あのまま一緒に居られたら今の君くらいかもしれないね。」
「一緒に居られたら、って。」

言葉の先を続けられなくなった悠斗の体を、カイトはやんわりと引き寄せて微笑む。

「もう、彼は居ないんだ。」

それは本当だった。
記憶の中の彼はもう居ない。
そして目の前の彼もまたカイトの弟ではない。
いや、実際は弟に違いないのだがそれでも兄だと名乗ることができないのだ。
それならば、居ないのと同じだろう。
少なくとも自分にはそうとしか思えなかった。
カイトはひとつため息をついて、悠斗の頭を肩に抱き寄せる。
その拍子、わずかに身じろぎをした悠斗の額に自らのそれをくっつけると、カイトははるか遠い昔の記憶へと想いを馳せた。

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