第6章 幼き日 (1)

『あなたはあの汚らわしい父親にそっくりな子供だわ!
 もう二度とこの子には会わせない。父親と一緒に出ていけばいいのよ!』

張り上げた母の声が耳の奥に蘇る。
あの日、カイトは大切な悠斗を抱きしめ、その頬に親愛のキスをしていただけだった。
だがそれが悪かった。
以前から折り合いの悪くなりつつあった父・京也と母・美雨の争いは日々悪化の一途を辿っており、
些細な出来事ひとつであっても、すぐに家同士を巻き込んだ騒動に発展するようになっていた。
特に母は関係の悪化が原因でヒステリックさを増している。
これでも昔は穏やかでおっとりとした女性だった。
西宮財閥における深窓の令嬢であった彼女は、財閥が目論んでいた呉服事業吸収のため、
呉服業界で唯一、名家と呼ばれていた七瀬家の長男と政略結婚した。
京也と美雨は美男美女のカップルとして周囲の羨望を受けるなかで、すぐにカイトを、二年後には悠斗を授かった。
二人を育てる母はいつも幸せそうな顔をしていて、子供たちにとっても理想の母親だったと思う。
ところがその状況が一変したのは彼らの結婚が八年目にさしかかろうという冬の午後だった。
父・京也がアメリカから帰国後、夕食の席で突然美雨に離婚を切り出したのだ。
最初、母はわけがわからないといった様子で京也に理由を問いただしていたけれど、父は絶対に理由を言わなかった。
ただ黙って離婚して欲しい。
呉服事業は撤退せず、西宮家の好きにしていいからと。
出された条件や理由だけでは納得できなかった母は、一時期体調を崩したもののなんとか関係を戻そうと必死に努力していた。
今までは家政婦任せにしていた食事を自分で作り、父の身の周りの世話を懸命にする。
時には美しく装って父をデートにも誘っていた。
しかしそんな努力もむなしく、父の心は離れていく一方だった。
アメリカへの和服売り込みと称した出張が増え、家に居る時間が短くなっていく。
美雨は日本だけでの事業では何が不満なのかと父に問っていたが、父は財閥の呉服分野における未来のためだとだけ答えていた。
普段は気が弱く繊細なだけだった父が、その頃はどこか強さを持っているように見えた。
カイトは幼心にもそんな父の変化を感じ、また母も同じことを感じていたのだと思う。

「ねえ、海斗。お父さんはどうしてお母さんのことを嫌いになったんだろうね。」

悠斗を膝に抱えながら、窓辺に座る母は言った。
横顔からは在りし日の美しさやハリが消えていて、痛々しさだけが漂ってくる。
カイトは子どもながらに母を慰めようと、その手を強く握りしめようとした。
けれどその途端、カイトはぴしゃりとその手をはねつけられた。

「海斗はお父さんそっくりね。憎らしい顔でこっちを見ないで!」

表情を歪めた母の顔は憎悪に満ちている。
柔らかく聡明で温かかった面影などなにひとつ感じさせない。
その面差しはカイトを怯えさせるのに十分で、カイトは床に座り込んだまま動けなくなった。
母が悠斗を抱いたまま、カイトに歩み寄ってくる。
そしてカイトに立つよう命令すると、ほっそりとした指先をカイトの顎下に添え、それを持ちあげた。

「私は慰めなんて欲しくないの。愛しかいらない。」

氷よりも冷たい声が降り注ぎ、次の瞬間にカイトの体が引き倒される。

「もう顔も見たくないわ。もう沢山よ。彼も、彼に似た子もいらない。
 だからあなたは今夜から離れで暮らしてちょうだい。母屋へ来ることは絶対に許さない。」

したたかに打った背中の痛みより、その言葉の方がカイトには重かった。
まだ八歳のカイトをまるでペットでも捨てるかのように扱う母。
信じられない出来事が足早にカイトの前を通りすぎ、閉められた扉の向こうへ消えていく。
(おかあさん、どうして。)
ショックに涙も出ないカイトはしばらくそこを動くことができなかった。
ぼんやりとした視界がどんどん暗くなり、やがて一筋の月灯りが射しはじめる。
耳の奥にノックの音が聞こえ、カイトは虚ろなままでその音が鳴った場所を見つめた。
年老いた家政婦が扉を開け、カイトのもとへと近づいてくる。
その家政婦は、カイトたちが物ごころついた時からこの屋敷で働いている乳母のような存在だった。
無論、カイトたちの世話をするために雇われた人間だったけれど、彼女はカイトたちを本当の孫のように慈しんでくれていた。

「ぼっちゃま、お部屋の用意が整いましたよ。さ、ばあやと参りましょう。」

家政婦がカイトの脇に腕をさしこみ、立たせてくれる。
カイトはおぼつかない足もとを懸命に踏みしめながら、ばあやの手に縋った。
彼女の温かな手のひらからぼんやりと伝わってくる温かさが辛くて、カイトはぎゅっとこぶしを握りしめる。

「海斗坊ちゃま。今はお辛いでしょうが気をしっかり持って下さい。
 奥さまも気が動転しているだけなのです。海斗ぼっちゃまにはばあやがついておりますよ。大丈夫です。」

くちびるを血が出るほどに噛んだまま彼女を見上げると、ばあやはふんわりとした笑みをカイトに向けてくれた。
途端、カイト胸にズキンと大きな痛みが走る。
それこそ自分でも不思議に思うくらいの痛みで、カイトはその痛みにもう涙を堪えることができなかった。
母に捨てられ、父は屋敷を留守にしていて居ない。
そんな冷え切った場所にカイトは透明な雫をこぼすことしかできないのだ。
(なんて自分は無力なのだろう…。)
嗚咽をこらえて泣くカイトをばあやが立ち止まって抱きしめてくれる。
そのじわりとした優しさがまたカイトの涙腺を緩めて、余計に涙を止められなくなった。

「ばあや。どうしたらいいの。どうしたらいいの。僕、もうおかあさんの子供じゃないの?」

震える声に、ばあやは黙って背中をさすってくれる。
それが余計にもうこの家に自分を必要としてくれる人間はいないのだという現実を教えて、
カイトはぐちゃぐちゃになった世界の真ん中にくずおれた。

「もう――悠斗にも、会えなくなるのかな。」

なかば無意識にカイトは呟いてしまう。
母に抱かれ、扉の向こうに消えていった二歳年下の大切な弟は今頃どうしているのだろうか。
いつも一緒にいたから、寂しがっていたら可哀想だ。
自分よりも小さくて可愛らしい弟。
悠斗の世話をカイトは自分自身の世話をできるようになったころから、ずっとしてきた。
遊んでやったり本を読んだりして甘やかしながら、悪いことをすれば時々叱る。
カイトがどんなに叱っても雛のようについてくる弟をカイトは何よりも大切に思っていた。
同じ血を分けた、愛しい存在。
誰が分からなくても自分だけは悠斗のお兄ちゃんで味方だ。
そんな風に思いながら、カイトは悠斗との毎日を大切に大切に過ごしてきた。
自分にとって宝物とも言える時間を奪われてしまうなんて、カイトには絶対に耐えられない。
世界が敵に回っても、誰にも愛してもらえなくても、カイトは悠斗さえ居れば生きられる気がしていた。
だからせめて悠斗には必要とされたい。そばに居たい。
ほとんど渇望と言ってもいいくらい、今、母に捨てられたこの瞬間でさえカイトは悠斗に焦がれていた。
重だるい体をばあやに揺さぶられてやっと、カイトの意識が現実へと戻る。
ばあやはカイトとゆっくりと視線を合わせると、やがて強く首を横に振った。

「いいえ。いいえ。坊ちゃま。
 悠斗坊ちゃまはきっと海斗坊ちゃまに会いに来てくれますよ。
 ばあやには分かります。悠斗坊ちゃまが一番好きなのはお兄様の海斗坊ちゃまだけです。」
「………本、当に?」
「ええ、本当ですとも。
 もし悠斗坊ちゃまが海斗坊ちゃまに会いたがったら、ちゃあんとばあやが連れて来てさしあげます。」
「うん、ばあや。約束だからね。」

信頼を込めた眼差しをばあやへ送ると、ばあやは力強く頷いてくれる。
カイトはその夜、ばあやに連れられるまま離れへと住まいを移した。
(前みたいにしょっちゅうは会えないかもしれないけれど――。)
それでもカイトにはばあやとの約束があるから耐えられる。
夕食を終え、冷たいベッドに入るとカイトはひとりぼっちの部屋から見えるまあるい月に可愛い弟の顔を重ねていた。

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