第6章 幼き日 (2)

悠斗がカイトの住まいを訪れたのはそれから数日後のことだった。
ばあやに手をひかれやってくる悠斗はカイトの姿を見つけると、ゴム毬のように跳ねて傍へと駆け寄ってくる。

「おにいちゃま!!!」

両手を広げ、子犬のような彼を腕に抱きしめると悠斗は頬を胸に擦り寄せた。
ぎゅーっと抱きしめて頭を撫でてやる。
大切な大切な宝物と会える時間はすでにカイトにとって貴重なものになってしまった。
以前は朝起きて、夜寝るまで、空いている時間はずっとそばに居られたし、
悠斗が眠れないとぐずれば、カイトが枕もとで本を読み、寝かしつけもした。
しかし今やそれができなくなって、この数日悠斗がどうしているのか、とカイトは気が気ではなかった。

「悠斗、寂しくはなかった?」

カイトは跪くと右腕のひじを立てた膝について、悠斗に聞く。
悠斗は一瞬目を大きく見開くと、すんと小さく鼻をすすった。

「寂しかった。
 おにいちゃまが夜、ご本をよんでくれないからぼく、ねれなかった。」
「そうなの?」
「うん。それにベッドもつめたくて、ぼくひとりじゃさむかった。」

ぐすりと大きな目に涙をためた悠斗は、ひしっとカイトに抱きつく。
カイトはそれをあやすように抱きあげると、よしよしと悠斗の体を揺すった。

「寒いからお部屋に入ろうか。」

悠斗を抱いたまま、カイトは離れの庭を歩き出す。
悠斗はしっかりとカイトの首に縋りついて、うんうんと首をたてに振っていた。
愛らしい振動にカイトまで涙が出そうになる。
たった数日しか離れていなかったのに悠斗はかすかに重みを増していて、そのことにもまた余計目の奥が刺激された。
自分が居なくても悠斗はちょっとずつ成長している。
そんな事実が寂しくて、嬉しくて、やっぱり哀しかった。
部屋に入り、悠斗をふかふかのクッションの上へ座らせる。
いつも使っている自分の部屋には数種類の本と勉強道具しかなかったから、
カイトはばあやに悠斗用の玩具を持ってきてくれるよう頼んだ。
部屋の扉を閉め、悠斗が座っているはずのクッションに目を向ける。
しかしそこに悠斗の姿がなくて、カイトは焦ってあたりを見回した。
数秒ののち、よちよちと歩きまわる悠斗の後ろ姿がカイトの視界に映る。

「あんまり動きまわると危ないよ。」

別段触って何かが起きるものなどカイトの部屋には無かったけれど、万が一を考えてカイトは悠斗を抱きあげた。
もし、本が机から落ちてきたら。
もし、文房具が棚から落ちてきたら。
沢山のもしがカイトを過保護にさせる一方で、悠斗は自由を奪われたことにむくれ顔になる。

「おにいちゃまのおへや、もっとみたい。」
「じゃあ、このまま…」
「やだ。ぼく、じぶんであるいてみたい。おにいちゃまによんでもらうご本さがすの!」

めずらしく我儘にぐずり始めた悠斗をカイトは宥めるように揺らした。

「ご本なら僕が探してあげるから。」
「やだ!ぼくがえらぶ!」

抱っこしているカイトの肩を叩き、悠斗は今にも泣きだしそうだ。
まさしくのっぴきならない状態に陥ろうとしている悠斗を、カイトは仕方なく床に下ろしてやった。

「じゃあ、ここから選ぶといいよ。」

そう言って指さしたのは一番背の低い戸棚で、この棚ならば弟の背丈にちょうどいい。
童話が入っている棚のガラス戸をあけてやり、カイトは悠斗をその前に促した。
悠斗が兄と本棚を交互にみやる。
そして合点がいったのか本棚の前に座り込むと、色とりどりの童話本を広げ始めた。
この本棚には想い出の絵本が詰まっている。
たとえば初めて両親とでかけたとき、街の絵本屋に寄って買ってもらった絵本。
小学校で友達ができたときにその子から教えてもらって自分で買いに行った絵本。
そして、悠斗が眠れない夜に読み聞かせをしてやりたくて買った絵本。
どれもがカイトにとってなくてはならない想い出とともにあった。

「おにいちゃま!ぼく、これがいい。」

先ほどの癇癪も治まった悠斗がカイトに一冊の本を手渡す。
『星砂ものがたり』
表紙には静かな海を照らす白い月と満天の星が描かれているカイトのお気に入りの絵本だった。

「これがいいのか?」

甘く微笑むと、悠斗はなんども頭を振って頷いてくれる。
カイトはそれを見ているだけで心が満たされ、日頃の悲しみが消えるように感じた。
床にあぐらをかいて座り、悠斗の小さい体を膝に乗せる。
あどけない表情で本が開くのを待つ悠斗はやはりどこから見ても可愛らしかった。
愛しい、愛しい、愛しすぎて、離したくない。
屋敷で一人になって、誰からも必要とされなくなっても、カイトの居場所はここにある。
カイトは宝物の重みをしっかりと感じながら、そして目の前にある月夜の扉をそっと開いた。

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