第6章 幼き日 (4)

本を閉じたカイトがぐずぐずと涙をこぼす悠斗の頭を撫でた。
悠斗はなかなかの感動屋さんらしい。
聞かせている間、寂しがりの波を心配してはカイトを見、星砂たちの優しさにまたカイトを見ていた。

「よかったねえ。よかったねえ。」

忙しなく動く彼のくちびるにカイトはやんわりと微笑みを返す。
童話にしては難しい話だと思うけれど、悠斗はあまりそれを感じていないようだった。
純粋にみんなの幸せを喜んでいる。
暗くなってしまった家の中でそんな真っ白な気持ちを持ち続けられている悠斗が、カイトにはとても誇らしく思えた。

「悠斗にも聞こえるといいのにな。お星様の歌。」

カイトが悠斗の頬をくすぐりながら言うと、

「おにいちゃまにはきこえるの?」

と黒目がちの目が見上げてくる。

「ああ。うーん。とっても小さい声だけど、時々ね。」

弟の夢を壊さぬようカイトが答えると、不意にカイトを見上げていた悠斗が難しい顔になった。
カイトは心配になり、年に似合わぬ表情を浮かべた悠斗の瞳をゆっくり覗きこむ。

「しずかになったら、ほんとうにきこえるようになるのかな?」

悠斗が兄の双眸をじっと見つめた。

「――どうして?」
「だって、ぼくにはきこえないんだもの。
 おほしさまはしずかなよるにしかうたわないって、さっきおにいちゃまがおはなししてくれたでしょう?
 いまね、まいにちよるになると、ぼくがいるおへやのとなりからおおきなおとと
 おかあさまのなきごえがきこえるんだ。だからぜったいにおほしさまのうたなんてきこえてこないよ。
 おそらや、すなはまでおほしさまがうたっていても、きっとぼくはきづいてあげられない。」

沈んだ顔をした弟に、兄の表情が痛ましく歪む。
カイトは悠斗がここへ来るまでの数日間、母の言いつけを守り母屋には近づいていなかった。
その合い間に父が帰ってきたことはばあやから聞いて知っている。
しかし、その近くで悠斗が傷ついていることには気づいてやれていなかった。
肝心なところで自分はいつも、いつも大切なものを守りきれない。
カイトは自分の不甲斐なさを心から恥じ、同時に情けなく思った。
たとえ母に疎まれようと、なじられようと、自分が悠斗の様子を見に行ってやればよかった。
カイトのなかで悠斗が居場所になっているように、悠斗もまたカイトを居場所にしてくれている。
それを知っているのはお互いの心だけだったのに――。

「つらかったね。ごめんね。悠斗。」

小さな肩を抱きしめて、カイトは悠斗に頬を寄せた。
悠斗はくすぐったそうに首を動かしたけれど、すぐに自分も兄の頬へと自らのそれを押しつけた。
やわらかな肌が涙を誘って、カイトはどうしようもなくなる。
あんな母屋からは引き離して、悠斗を自分の手もとに置いておきたいとカイトは痛烈に思っていた。
毎晩本を読んでやって、一緒のベッドへ入り、一緒に窓の外を見上げて星たちの歌に耳を澄ませる。
朝起きたら明るい太陽を沢山浴びさせて、一緒に美味しいご飯を食べる。
毎日がそれだけになっても悠斗とふたりならきっと楽しいに違いない。

「おにいちゃま、ここ、なみだがいっぱい。」
「ん…?え?」
「ほっぺた。おにいちゃま、はるとがへんなこといったからなみだがでたの?はると、わるいことした?」

本当に心配そうな顔で悠斗が尋ねる。
すっかり乾いた涙の跡を頬に刻んだ悠斗がくりくりの目でカイトを見上げていて、カイトはとても切なくなった。
カイトはそれを一心に否定するため、そうじゃない、と強く首を横に振ると、濡れた眦を細めてみせる。

「僕はね、悠斗と居る時が一番幸せだから。だから泣いちゃうんだよ。
 僕にとって悠斗と一緒に居られる場所だけが、あの星砂たちの歌う砂浜みたいなものだから。」
「ほんと?」
「うん、本当だよ。僕はずううっと悠斗のそばにいたい。」

カイトの言葉を聞いて、悠斗はきゃきゃっと嬉しそうな声をあげた。

「うん!ぼくも、おにいちゃまとずうっとずうっといっしょにいたい!」
「そうだね。ずっと一緒に居よう。どんなことがあっても、僕たちは兄弟だから。」

大切な大切な、いくら真綿で包んでも守りきれない悠斗。
カイトはその時、どれだけ自分が悠斗を必要としているのかを心の底から思い知っていた。
離れることなんて、絶対にできない。
胸の底から湧きあがる決意を胸に、カイトは悠斗を抱きあげた。
扉の向こうからばあやが呼んでいる。
もうそろそろ母が帰ってくるのだろう。
ひとまずは母のもとに悠斗を返し、それから改めて母に会いに行こうと、カイトは心を決めていた。
望みがなくてもいい。無理でもいい。
どんなに時間がかかっても、母を説得してみせる。
カイトは離れのたたきに置いてあった悠斗の靴を小さな足に履かせ、玄関へと出た。
悠斗の小さな手を握り、可愛い瞳に目線を合わせる。

「それじゃあ、悠斗。また会えるまでいい子にしているんだよ。
 いい子にしていたらきっとお星さまの歌が聞こえるようになるから。
 そしたら僕と悠斗はまた一緒に暮らして、一緒に星の歌を聞こう。いいね?」
「うん。がんばる。」
「よし、いい子だね。じゃあ、これは僕と悠斗だけの約束の証。」

そう言ってカイトは悠斗のぷっくらとした頬にキスをした。
柔らかくて、温かい、カイトだけの悠斗。
心から湧き上がる愛しさの対象を最後に抱きしめようとした、まさにその瞬間だった。

「何をしているの!!!」

大きな叫び声とともに、美雨が走り寄ってくるのが見える。
母は離れの玄関に辿りつくとそのまま悠斗を抱きあげ、カイトの頬を殴った。

「あなたはあの汚らわしい父親にそっくりな子供だわ!
 この子には近づかないで!忌々しい!今すぐあの父親と一緒に出ていけばいいのよ!」

ヒステリックな叫びを残し、カイトから悠斗を奪って彼女は足早に母屋へと帰っていく。
玄関口に膝をついて立ちつくしていたカイトは、母の肩越しに愛しい弟が何ごとかを叫んでいるのを
聞きとることもできず、ただ悠斗の泣き顔を見送るしかなかった。
(悠斗。悠斗。悠斗………っ!)
届かない想いを名前に乗せ、カイトは弟の姿が視界から消えると同時にその場へと突っ伏した。
燃える夕暮れの印象的な日――。
涙さえも呼ばない乾いた悲しみは、庭先の枯れた大地にさえ、潤いをもたらすことはなかった。


その日の真夜中。
父が大きなスーツケースとともにカイトを迎えにやってくる。
カイトは父に手をひかれるまま、パジャマ姿で悠斗の温もりと想い出が残る自室をあとにした。
海斗八歳、悠斗六歳――。
さよならを言うことさえ許されない真冬の別離だった。

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