第7章 兄と弟 (1)

悠斗を肩に抱き寄せてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
飾り紐を外された龍安も普段なら落ち着きをなくすのだが、今夜はカイトの胸の中でじっとしていた。
カイトと悠斗と龍安。
呼吸が三重奏のように静かな部屋へ響き、安らかな時間を醸している。

「悠斗?」

柔らかく声をかけると、彼は目だけをカイトの方に向けた。
いつもとは違う雰囲気の夜に、悠斗の瞳だけがいつもの光をたたえている。
カイトは肩に引き寄せていた悠斗を離すと、小さく苦笑した。

「すまない。つい弟の代わりにしてしまった。」
「いえ。」
「気分、悪くしたか?」

カイトが心配そうに問えば、悠斗はふるふるっと首を振る。

「あなたが寂しいことくらい、僕、知ってますから。」
「俺が、寂しい?」
「ええ。きっとあなたも星の歌が聞こえない人なのでしょう?
 僕にも聞こえないんです。一緒に聞こうと言ってくれた人が居なくなったから。」

ぶっきらぼうに返された言葉に、カイトは言葉を失った。
ふたりの間で交わされた約束。
あの冬の昼下がりにある想い出はカイトひとりだけのもののはずだった。
『一緒に暮らして、一緒に星の歌を聞こう。』
この言葉に可愛らしく頷き、カイトからのキスを受けていた弟。
当時の悠斗はまだ小さな子供で、普通に考えても記憶が曖昧な時期だ。
カイトは悠斗の記憶がどれだけ確かなのか分からず、悠斗の双眸を見返すことしかできない。

「誰が言ったかは覚えていないんです。
 ただ、僕はその約束だけを支えに今日まで生きてきましたから。
 聞こえないことを寂しく思いながら、いつか聞こえる日が来たら会えるんじゃないか、なんて馬鹿なことを信じて。」
「どうして馬鹿だなんて。」
「だって馬鹿でしょう?その言葉しか覚えていないんですよ?
 その人の声もなにもかもがよく分からない。だけど漠然と信じて、信じるしかなくて。
 それだけを頼りに生きてきただけの僕なんて馬鹿以外のなんだって言うんです?」

いつもは気丈な彼が目に涙をため、カイトをきっと睨んだ。
憎しみでも恨みでもない、ひたすらに哀しいと言っている瞳だった。
弟にこんな寂しい目をさせ、自分は一体何のために人を殺しながら生きてきたのか。
考えようとするだけでカイトの思考回路はぐしゃぐしゃになる。
存在意義さえ曖昧な境界線の上で、カイトもまた悠斗という光を見続けてきた。
そんな愚かな男を悠斗はずっと待ってくれていたのだ。
カイトはなんの慰めにもならないと分かっていて、もう一度悠斗を自分の肩に抱き寄せる。
これから口にするのが詭弁だとしても、カイトは悠斗を心から愛おしんでやりたかった。

「君は馬鹿じゃないよ。悠斗くん。
 悠斗くんが信じて待ってくれているなら、きっとその人は悠斗くんと暮らすために帰ってくる。」

できるだけ力を込めて囁いてやる。
すると悠斗はカイトの肩へと額をこすりつけ、いやいやをした。

「そんなこと、ない。あるはずない。わかるわけないですよ、カイトさんになんて。」
「そうかな?もし俺が待っていてもらえていたとしたら、俺はきっと幸せだと思うよ。
 だから君にそんなに大切にされているその人は、それだけでも幸せなんじゃないかと思う。」

宥める仕草で髪を梳き、カイトは悠斗の頭をポンポンと叩く。
懐かしい仕草を見せて駄々をこねた悠斗は、カイトの袖をつかみ肩から離れようとしなかった。
まったく変わっていない。
どこまでも純真で優しく、わがままだった悠斗がカイトの前にいた。
いくら抱きしめても足りない。
愛しくて愛しくて、どんなことをしてでも守りたいと思っていた愛情の結晶。
この結晶は窓の外、降り積もる雪よりも白く、温かかった。
相変わらず、部屋には定期的な呼吸音だけが響いている。
静寂の上にしんしんとした寒さが積もりだし、肩に抱いていた悠斗がかすかに震えた。
おそらく時間帯が寒さの募る深夜へとさしかかろうとしているのだろう。
ミッドタウンにおける冬の夜は暖房がなければ命取りだ。
カイトは肩にある体温を名残惜しく思いながら、暖房をつけに行くため、しがみついた悠斗を離そうとした。
すると同時にその指先をぐんっと掴まれ、その反動で顔が悠斗のそれに近づいてしまう。
拍子に潤んだ悠斗の瞳が目に入って、カイトはその場に固まった。

「カイトさんだったらよかったのに。
 一緒に聞こうって言ってくれた人が、カイトさんだったらよかったのに。」

願いにも似た響きに、カイトは慟哭を覚える。
父によって、ひいては自分の不用意さによって引き離された唯一無二の弟。
こんなに思いつめた顔をする彼を見ていて、何もなかった顔なんてできない。
(俺だよ、俺がお前と約束した。俺がお前のたった一人の兄だ。)
いますぐそう言ってしまいたかった。
しかし、カイトは知ってもいた。
言ったところで罪に染まった自分が約束を叶えてやることなどできないことを。
下手に関われば、悠斗が命を落とすかもしれない。
現に一度、自分はドン・ガヴリロヴィチの命令によりリヒャルトと共に居た悠斗を狙っている。
その事実がある以上、カイトにとってそれは無視できない現実だった。
暗殺者としての自分は兄としての自分とは共存できない。
それをカイト自身、とてもよくわかっていた。
カイトはゆるく笑みを作ると悠斗に掴まれた指先をやんわりと解く。
戸惑う泣き顔の悠斗をぎゅっと抱きしめると、親指でその涙を拭ってやった。

「俺も、そう思うよ。
 だけどやっぱり俺は、悠斗くんの大切な人とは違うから。」

目だけで弧を描き、カイトはゆっくりと視線を外す。
そして背を向けるようにしてカイトは腕のなかの龍安をしっかりと座らせ、龍安に声をかけた。

「大丈夫か?今から飾り紐戻すから、しっかり座っとけよ。」

こくりと頷く龍安の髪を、カイトは手際よくまとめていく。
艶やかな黒髪は束にすると馬の尻尾のようだった。
飾り紐が手の中で怪しげに光る。
けれどカイトはそれを見なかったことにして、あるべき場所にくくりつけた。
しっかりと結わえつけていると、日本で一度だけひいたおみくじを思い出す。
(この紐にはなんて書いてあるんだろうな。)
そんなくだらないことを考えて、カイトの指先は美しい蝶結びを作りだした。

「ほーら、できたぞ。立ってベッドまで歩け。」
「んん…っ。」
「龍安!ベッドに着いたら寝ていいから、今は歩け。」

必死に鼓舞しながらカイトは龍安を自分のベッドに寝かしつける。
先回りした悠斗が掛け布団をめくって待ってくれていて助かった。

「ありがとう。悠斗。」
「いえ。」

短い会話に影が落ちる。
カイトはわざと口調を明るくすると、龍安に関する秘密をもう一つ暴露した。

「あのな、悠斗。
 驚かないで欲しいんだが、龍安は飾り紐をつけたら最低でも六時間は起きない。」
「は?」
「これも呪いのうちらしくてね。厄介だとは思うんだが仕方ない。」

腕組みをして言うと、悠斗は呆れ顔を作って龍安を見下ろしている。
かたや我関せずといったところですやすやと眠る龍安は、おそらくこの部屋で一番幸せな人間だった。
(まあ、今夜の仕返しも、もとはと言えばこいつが悪いわけだしな。)
微かに湿気てしまった空気を追い出すように、カイトは小さな笑みを口もとへ浮かべた。
そしてその表情のまま悠斗へと向き直り、新たな思いつきを提案する。

「とにかくそういう訳で今夜は悠斗を送って行けなくなってしまった。
 だから、今夜は悠斗もうちに泊まってくれないか?毛布しかないから体は痛い思いをするかもしれないが。」
「でも…。」
「これは俺からの頼みだよ。今の時間に、君を一人では帰したくないから。」

まろみのある声で紡がれた誘いに、悠斗は一時思案したあと渋々顔で頷いた。

「じゃあ、今夜だけ。」

彼はそう言うと、勢いよく踵を返して散らかったダイニングテーブルを片づけ始める。
カイトはその背中を切なさの混じった視線で一瞥すると、静かに背を向けた。
我儘だとは分かっているけれど――。
せめて今夜だけは、弟のそばに居てやりたかった――居たかった。
カイトは安らかに眠るトラブルメーカーの鼻をつまむと、心のなかだけで彼に感謝を告げた。

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