湯あがりの石鹸の匂いがカイトの鼻先をくすぐった。
薄く目を開けると、悠斗の顔がそばにある。
「あ…、起こしてしまいましたか。」
「ん、あ。ごめん。俺の方こそ…」
カイトが体を起こそうとすると、悠斗に肩を押された。
「別に。そのままでいいですから、寝てて下さい。」
「ああ、でも…」
「いいから!」
ぴしゃりと言われて、カイトはその双眸に困惑の色を浮かべる。
悠斗の頬は紅く色づき、どうしてか目を合わせてくれない。
カイトが手を伸ばそうとすると、悠斗は掬うようにその手をとった。
「ん?」
「僕は枕がないと寝れません。」
「え…っ?」
「だから…っ!こうしてください。」
取られた腕を勢いよく広げられ、悠斗がその中に倒れ込んでくる。
一体何が起きたのかわけのわからなくなったカイトは、腕に重みを感じてもしばらく動くことができなかった。
カイトの首筋に顔を埋め、しがみついてくる悠斗。
その体温は熱く、まだ生乾きの髪がカイトの頬をかすめた。
柔らかく、可愛らしかった頃とは違う骨ばった質感に、大きくなった肩幅。
カイトは悠斗を優しく抱き返しながら、確実な時の流れを感じた。
今までに何度も感じたことのある感覚。
でもこうして如実な実感として味わってみると、それはカイトの心に痛みを呼び起こした。
「やっぱり、一人で寝るよりあったかい……ですね。」
悠斗がくぐもった声で口にする。
カイトが身じろいで悠斗の顔を見ようとすると、悠斗はまた得意のいやいやをしてそれを避けた。
「顔は見せてくれないの?」
「――ええ。」
「どうして?」
「恥ずかしいから。良い年になった男がこんな風に甘えるの、みっともないし。」
一応の矜持は残っていたのか、とカイトは笑いだしそうになる。
こんな風に人の上に倒れ込んでおいて何をいまさらとカイトは思うのだが、悠斗にはとてつもなく恥ずかしいことなのだろう。
そのくせ、甘えん坊なところはまったく変わっていない。
カイトは彼が普段敬語で覆い隠している弟気質な部分を、またひとつ見つけた気がした。
こうして一つずつ、失ったものを取り戻していく。
そもそもが兄弟であるのに少しずつ近づくことでしか埋められないそれは、恋人になるまでのステップに似ていた。
「龍安は寝ているし、俺しか見ていないんだから、悠斗は恥ずかしがらなくてもいいんだよ?」
「やだ。無理。」
「じゃあ、強引に引き剥がしてもいい?」
悠斗の腕に手をかけ、カイトがひきはがす素振りをする。
すると悠斗はさっきよりも大きく、激しくいやいやをした。
「だめですよ。僕、今だけはカイトさんの顔、見たくないから。」
「そんなに恥ずかしい?」
「違い、ます。今、カイトさんの顔見たら、なんだか、泣いちゃいそうで。」
予想だにしなかった弟の弱弱しい声音に胸の中心が疼く。
カイトは衝動的に体を起こすと、弟を抱きしめ、顔を覗きこんでしまっていた。
そこにある瞳はすでに薄く濡れている。
「どうして、泣いているの?」
「だって、やっぱりカイトさん、似てるんだもの。
顔も声も分からないのに、それでも僕の体が言うんです。あの人の体温がカイトさんと同じだって。」
切々と訴える瞳をカイトはもう見続けることができなかった。
部屋の薄暗いランプが、昏いオレンジ色で二人の影だけを映し出す。
カイトは深々と悠斗を抱きしめたまま、ぐっと涙をこらえていた。
隠し通すと決めたのだから。
理性と激情の濁流のなか、警鐘だけが鳴り続けている。
(過去を追い、捨てられず、兄だと名乗らないと決めたのに、それでも、俺は――。)
目蓋を強くつぶったまま、カイトはくちびるを噛んでいた。
不意にほんのりとした熱が頬へと触れる。
目を開くと悠斗が哀しげに微笑んでいた。
「でも、僕は知ってるから。
いくら僕がそう思ったとしてもカイトさんはあの人とは違うんだって。
だから、だから…困らせるようなことを言ってごめんなさい。ただ、懐かしかっただけだから。」
健気に言い訳をして睫毛を伏せる存在をこの時、カイトは強く愛していると感じた。
情愛などという温い言葉では済まされない――熱情。
激しく湧きたつ血潮が、どうしても悠斗を離したくないと言っている。
母に引き裂かれた日。
カイトは同じことを感じていた。
だから、悠斗なしで生きる世界なんてなんの意味もない。
悠斗を泣かせるだけの自分なら必要ない。
「んっ…」
気づけばカイトは想いのままに、悠斗のくちびるへとキスを落としていた。
他人であると、そう言いきっている今ならばせめてこのくらいは許されてもいいはずだ。
いや、許されなくともかまわない。
汚らわしい兄だと、そう世界中から罵られても悠斗を慰めるためなら自分はどれだけ汚れたって構わなかった。
悠斗の柔らかなくちびるが開き、恐る恐る兄の舌を受け入れる。
カイトは悠斗の背に回した腕にぎゅっと力を込めて、キスをしながら何度も頭を撫でていた。
角度を変え、何度もくちびるを、舌を吸ってやる。
そして息が上がりそうになったころ、二人はくちびるを離した。
悠斗が名残惜しそうな顔をして、カイトを見上げる。
カイトはそれをなだめるように、もう一度抱きしめると耳もとで囁いた。
「ごめん。これだけしかしてやれなくて、ごめん。」
声は震えていなかっただろうか。
訝しく思われはしなかっただろうか。
普通ならこのまま抱いてしまうところだとは思うが、それはカイトにはできなかった。
胸の十字傷が熱をもって痛みだす。
それはまるでドンが使命を忘れるなと言っているかのようだった。
あの誓約がある以上、大切な弟をこのまま自分の汚れた人生にひきこむわけにはいかない。
後悔はないが、それでも衝動に任せてカイトは弟のくちびるを犯してしまった。
この罪はカイトだけが死ぬまで一生『宝物』として抱えていくつもりだ。
「傷つけていたら、すまない。」
苦しみを吐きだすかのような台詞に、悠斗は目を閉じたまま首を横に振る。
「いいんです。カイトさんの優しさだって、分かってますから。」
静かな声だった。
諦めでも、悟りでもない、純粋に事実を受け入れた音色。
カイトはもう一度だけ悠斗にごめん、と言い、その額に柔らかく、触れるだけのキスをした。
「ありがとう。悠斗。」
「ううん。気にしないでください。」
これが今夜、兄弟の交わした最後の言葉だった。
短くて切ない、ただ気遣いに溢れただけのやり取り。
それぞれに秘めた想いを胸しまいこみ、二人はしっかりと互いを抱きしめあう。
そして日が昇り、朝陽が夜を消し去っても、カイトはいましばらく悠斗の体を離すことができなかった。
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