第8章 薔薇 (1)

組織からの呼び出しがあったのは、その三日後だった。
カイトがアリアドネのオフィスへ出向くと、タリアが難しい顔でデスクに座っている。

「Hi.Taria.」

声をかけるとクールな美人はカイトの姿を認めてデスクを立った。
笑みだけで会釈した彼女はどこか浮かない顔をしているように感じられる。

「タリア、何か悪い事でもありましたか?」
「いいえ。」

短く答え、資料をまとめているタリアにカイトは少々違和感を覚えた。
いつもなら用がなくても多少の小言を言うはずなのに、今日は何も言われない。
タリアが何を考えているのかは分からないが、少なくとも今日の話が良い話ではない事だけは雰囲気で察することができた。
動物的な勘とでも言うのだろうか。
この組織で仕事を始めてそれ相応の年月を経れば、多少は幹部の考えていることをかぎ取れるようになるものだ。
あまり話を進めるのは気が進まないと思いながらも、カイトは応接間の椅子に腰かける。
遅れてタリアが書類を手にして、カイトの正面に座った。

「あなたに仕事の依頼よ。」

差し出された親書を受け取り、差出人を確認する。
丁寧に封蝋まで施されたそれは、カイトの視線を一気に険しくさせた。
淡く香るコロンの残り香が胸の傷を疼かせる。
カイトは差出人の正体を嗅ぎわけると、厳しい顔つきのままそれを開いた。
筆記体で書かれた英語の手紙。
ロシア語を母国語とする彼にしては、随分気のきいた真似だった。

『私の従順な飼い犬へ

 先日の審判における再審の日が決まった。
 その日はお前がこの親書を読んだ三日後だ。
 心して爪をとぎ、鋭利な牙をもってその日を迎えよ。』

短く書かれた手紙にカイトはため息をつく。
つまり、再襲撃の日が決まったということをドン・ガヴリロヴィチは告げてきたのだ。
リヒャルトを、討つ。
個人的な恨みも何もない、あの人の良さそうな紳士を、悠斗を慈しんでくれている人間を、
カイトはふたたび狙わねばならないということだった。
手にした手紙をテーブルへ置き、胸元へと指先を這わせる。
着ているシャツのそこをぐしゃりとつかみながら、カイトは息を殺した。

「ドンは、あなたにやってほしいそうよ。」

見かねたタリアが口を開く。

「以前の襲撃から時間も経っているし、何よりあなたは失敗している。
 組織の沽券に関わるから私は他の狙撃手も勧めてみたのだけど、彼はどうしてもあなたにやらせたいと。」

沈痛な面持ちで言う彼女はいつもの冷徹なコーディネータの顔をしていなかった。
カイトは彼女がまわしてくれた気遣いを申し訳なく思いながら、ふっと口もとを緩めて見せる。

「そうですか。ありがとうございます、タリア。
 でも、彼は俺にやらせると宣言していましたから、それは当然でしょう。」
「しかし、またあなたが失敗したら――。」

眉をひそめるタリアにカイトは小さく首を振った。

「俺の不始末は俺のものです。もう失敗したとは言わせない。」

強い眼差しを向けると彼女はそのまま押し黙り、カイトを見つめ返した。
そう。失敗すれば何が起きるかわからない。
ドン・ガヴリロヴィチは今まで出逢った依頼主の中では一番だと言えるほど、冷酷無慈悲な男だ。
胸に消えない傷跡を作り、カイトを始末せずに放置した男。
彼の息がかかっている世界でカイトは自由を得、生かされていた。
カイトの脳裏にあの日の冷酷な瞳と言葉が浮かぶ。

『俺に殺される以外のいかなる理由でも、死ぬ事は許さん。お前に安息の死などありえない。』

一時は気の迷いで見逃したとしても、きっと二度目は無い。
カイトはテーブル脇のカレンダーを見ながら、手もとの親書を睨めつけた。

「タリア。俺に任せるのは心配かもしれませんが、必ずやり遂げます。心配しないで。」

念押しするようなカイトの口調に、今度はタリアが嘆息をつく。
今まで見たことのない物憂げな眼差しに、カイトは首をかしげた。

「カイト、ドン・ガヴリロヴィチは本気よ。しっかりやりなさい。」

厳しい口調が鼓膜を突く。
カイトは毅然とした表情を彼女へ向けると、しっかりと頷いた。

「ええ。もちろんです。」
「そう。わかっているならいいの。ただ…。」
「ただ?」
「わたしはカイトの腕を信用しているけれど、相手が相手だから。
 もし、何か思うことがあるのなら今のうちにしておくよう言っておくわね。」

情の無い声で言われ、カイトは動けなくなる。
『今度こそ死を覚悟しておけ』
そう言われた気がして、カイトは動悸が激しくなるのを止められなかった。
死ぬことが怖いなどと、思ったことはない。
思ったことはないけれど――。
胸の傷跡がじくじくと膿んだ痛みを響かせる。
だが、カイトにはこの痛みから逃げ出す術などどこにもなかった。
カイトはシャツの胸もとをぎりりと握ると、静かに応接間のソファから立ち上がる。

「タリア。俺、もう行きますね。」

にこやかに微笑みかけると、タリアはゆったりと目を上げた。
直後、長い睫毛が影を作ってその蠱惑的な瞳を隠してしまう。

「三日後、マルスを数人、指定の場所へ送るから。
 あなたはそこへ直接出向いてくれればいいわ。くれぐれも、気をつけて。」

珍しく身を案じる言葉をつけ加えたタリアは、もうカイトの方を見ることもない。
カイトは彼女に向かい礼をすると、デスクへ背を向け大きく一歩を踏み出した。
鈍重な扉のノブにしっかりと手をかけ、握って開く。
視界に飛び込んできたのは美しい熱帯魚が泳ぐきらびやかな水槽で、カイトは現実をどこか遠くに感じていた。
ひらひら、ひらひらと泳ぐ囚われの魚たち。
美しい光の中でやがて死にゆく運命を彼らは知らない。
カイトは現実感のなくなった頭にぼんやりと浮かんだ決意を胸に秘め、後ろ手に扉を閉めた。

Next