その日の夕方、悠斗が帰ったあとでカイトは『トラットリア・香港』へ電話をかけていた。
香港料理を扱うくせになぜか店の頭文字にイタリア語を使っている。
そんなおかしな店で働いているのは、かのトラブルメーカーだった。
「ハーイ!こちらトラットリア・香港。売れっ子サービスマンの龍安でーす!」
無駄に賑やかな声を出されてカイトはげっそりする。
こういう人間だと分かってはいても、いざそれに対すると誰であろうが多少は気後れしようというものだ。
「お前………。」
「あっ!カイト!こないだはどーも!」
「声だけでわかるとはまた。」
「そりゃ、愛があるからね!」
明るく言い放つ彼には本当に悩みがなさそうだ。
いや、実際はあるのかもしれないが、この声を聴いているとカイトには到底そう感じることができなかった。
龍安を相手にしていると、たまに人生を真面目に生きている自身が馬鹿らしくなってくる。
カイトは電話の手を右から左に持ち直し、手短に告げた。
「明日の夜は暇か?」
「え?明日?まあ、暇だけど。」
「そうか。なら明日の午後五時頃、うちに来い。」
ほとんど命令みたいな言葉に龍安は軽く、はいはい、と返事をする。
理由を聞かない、この男の呑気さは今のカイトにとってかなりの救いだった。
カイトが何を考えているのか。
それは誰にも知られたくないことだった。
自分で自分が死んでもいいように準備をする。
普通の人間なら考えられないことを、カイトはしようとしていた。
「じゃあ、明日。待ってるよ。」
「ああ。楽しみにしてるぜ、チュッ!」
「キスは余計だ。」
憮然と言ってから電話を切ると、カイトはダイニングへ足を運んだ。
先ほどまで悠斗とともに夕食をとっていたテーブルが寂しそうにそこへ居座っている。
カイトはそのテーブルの上を一撫でして、その指先を腕の傷跡へとやった。
一週間と少しの戯れ。
傷は悠斗の手当てと献身的な世話のお陰でほぼ完治している。
胸の傷同様、こちらの傷も恐らくは痕になり痛むのだろうが、それでもこの傷はカイトにとって大切なものになっていた。
これは悠斗に愛された証拠だ。
悠斗が監視と言いながらせっせと通い、治してくれた愛おしい傷だった。
大人びていて、そして子供の顔をもつ弟。
それはカイトの心に、多くの幸せを運んでくれた。
素直になれない悠斗、怒った顔の悠斗、泣きながら甘えてきた悠斗――沢山の悠斗が今、カイトの胸の中に居る。
「本当に、愛してたよ。悠斗。」
自らの体を抱きしめるようにして、カイトは誰も居ない部屋へ呟いた。
まだ、死ぬと決まったわけじゃない。
だが、死なないとは言いきれないのだ。
今のカイトは細い、細い糸の上で綱渡りをするピエロと同じだった。
どちらに傾いたとしても、もう悠斗のそばには居られなくなる。
カイトはベッドの上へ寝転がり、窓から覗く月の光を見上げた。
不夜城の光が密集するこのあたりは、月以外の光など見えることがない。
「聴きたい。聴きたいよ。悠斗。」
微かに空気を震わせただけの囁きを残し、カイトは歯を食いしばる。
絶対に泣くものか。
そう思って生きてきた人生の大半を、カイトは熱い雫とともに思い出していた。
壊れた母、身勝手な父、狂っていた義父――そして、無力な自分。
いつだって大切なものも、自分の人生さえも守ることが出来なかった。
このどうしようもない二十八年間の命を、誰に捧げるのか。
ドン・ガヴリロヴィチにだけは捧げたくないと思った。
最後まで悪意に屈するつもりはない。
カイトはほとんど無意識のうちに、胸の十字傷をかきむしった。
『お前の目に宿る光が誰のものなのか』
この問いの真実は誰にも見せてやらない。
たくさんの苦しみの果てに、やっと答えを手にしたのだ。
誰にも見せず、最後まで抱きしめたまま、カイトは冷たい水底へ堕ちていってやろうと決意をする。
カイトは自らの目蓋に腕を乗せると、鋭利な月明かりを浴びたまま、底のない眠りへとその身を投げ出した。
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