第8章 薔薇 (3)

「やっぱり初のデートには薔薇が肝心でしょう!」

いつもの通りカイトの部屋に来て騒ぎ始めた龍安が五十本の真っ赤な薔薇の花束を抱えている。
カイトはその姿を見た途端、こいつは馬鹿なんだろうかと真剣に考えたものだが、
当の龍安はそんなカイトの思考を見事に無視していた。
カイトの足もとに跪き、忠誠のナイトを気取っている。

「もういいから。」

カイトがうんざりした顔を見せると、先ほどまではしゃいでいた龍安がむくれた。
白の美しいアオザイを着た美貌の彼は、ますます女にしか見えない。
端から見れば逆プロポーズされているようにも見えかねないそれを、カイトはどういなそうかと迷ってしまう。

「カイトってばやっぱりノリ悪いよね〜。俺がこんなに頑張ってるのに見向きもしない。」
「そんなことはない。今日だって呼んでやっただ…」
「うーそ。どうせ俺に何かしてほしいことがあるだけのくせに。」

突然鋭いことを言ってくる龍安にカイトは唖然とした。
別に何かを勘ぐらせるようなことをしたつもりはないし、見え透いた態度をとったつもりもない。
だが、目の前に居る龍安はひどく心配そうな顔をして、カイトを見つめていた。

「何?何があったの?」

龍安の両手がカイトの頬を挟む。
カイトはそれから逃れようと身をよじるが、存外に力強い腕がそれを許しはしなかった。

「別に、何もない。」
「本当に?」
「ああ。」

端的な答えだけを返すカイトを龍安は思案顔で眺めた。
頬をはさんでいる手が熱い。
女性的な容貌をしている龍安をこんな風に間近に見るのは初めてだった。
きりっとした眉は想いのほか男らしいし、やや薄めのくちびるは涼しげで酷薄にも見える。
(こいつはこんな男だっただろうか。)
そんなことを考えながら、カイトは龍安の双眸を見返した。
さすがにいつまでもこんな体勢でいるのはきつい。
カイトが体勢を立て直すため龍安の肩を押し返そうとした。
その瞬間だった。

「んんっ…!」

貪り食うようにくちびるを吸われ、カイトは思わず目を見開く。
頭を引き寄せられ、腰もがっちりと抱きこまれて龍安は濃厚なキスをくらわしてきた。
龍安は息ができないほどにくちびるを合わせると、カイトのくちびるを割り、舌を忍び込ませてくる。
間髪いれずに龍安の舌がカイトの口腔の奥までをねっとりと犯した。
激しく荒い舌使いに何度も舌を吸われ、息を乱される。
角度を変えた唇の端からは透明な唾液が流れ落ち、カイトの思考回路を奪った。

「っあ…龍安。」

やっとの思いで口にした時、カイトの耳の奥にドサリという音が聞こえる。
ぱっと玄関口へ顔を向けると、悠斗がそこに立っていた。
一秒、二秒、三秒――。
悠斗が視線を外し、玄関の外へと飛び出していく。

「っ…はるっ…。」
「お前はこうしたかったんじゃないのか!」

追いかけそうになる体を押さえつけ、龍安がカイトへと言い放った。
いつもと違う厳しい口調。
カイトが龍安へと視線をやると、龍安の表情からいつもの表情が消え、ひどく痛ましいものになっている。

「お前、理由があって俺を呼んだんだろ。そのひとつがこれなんじゃないのか。」
「っ…ちが。」
「嘘言わなくていい。俺にだってそのくらい分かる。分かってるから、無理しなくていい。」

ぎゅっと抱きしめてくる龍安の腕に、カイトは逆らえなくなった。
顔を埋めさせられた首筋から、綺麗な黒髪から、東洋的な香の香りがする。
とても柔らかい、素朴な、香りだった。
龍安のために特別に調合されたものだと言われても納得できる。
そのくらい、彼に似合っていた。

「馬鹿だね。お前。」

自嘲にも似た響きが静かな部屋に落ちる。

「カイトこそ、馬鹿だろうが。」

泣き笑いの声で龍安が言った。
その声は彼が情に厚い男だと教えてくれるようで、カイトは胸がぎゅっとなる。
行きずりの、偶然知り合っただけの、貧乏学生のくせに――。
思ったら、カイトの頬にも一筋透明な雫が伝い落ちた。
カイトは黙ったままで龍安の髪かざりにそっと手を伸ばす。
龍安はそれが解かれるであろうことが分かっても、何ひとつ抵抗しなかった。
抱き合ったふたりの足もとには花束が横たわり、静かな影を作っている。
さらっという音のあと、龍安の髪の毛がしなやかに垂れた。
互いの呼吸がひと時止まり、龍安の視線がカイトの双眸へと注がれる。
翡翠色をした龍安の瞳にカイトは吸いこまれる思いがした。

『カイト、大好きだったのね。悠斗のこと。』

優しく柔らかな声音が奏でられる。
微笑んだ彼女に、カイトは涙に濡れたまましっかりと頷きを返した。
手を伸ばし、彼女は慈しむようにカイトを撫でる。
夜が近づく部屋にはふわりとした、寂しいセピア色が充満していた。

『大丈夫。私がちゃんと覚えておくから。』

大人びた仕草で答える彼女はどこか眩しそうにカイトを見つめる。
あの夜、黙ってカイトの胸の中にいた可愛らしい幼子は今、まるでさなぎから蝶へと羽化しようとしているようだった。
けれど、白く繊細な指先に人らしい体温はない。
カイトはその手を取るとぎゅっと握り、自らの頬に当てた。

「悠斗を、頼む。」

短く言伝たカイトは彼女が頷くのを見届けると手にしていた翡翠の飾り紐を握りしめながら、彼女をベッドへと横たえた。
翡翠色の珠が三つ、緩い鼓動を繰り返し、手の中で熱を発し続けている。
カイトはそれをもう一度ぎゅっと握りしめると、あるべき場所へ戻してやった。
そしていつか、おみくじのようだと思ったそれにカイトは強く、強く願いをかける。
(ただ、悠斗が、龍安がこの先もずっとしあわせであるように。)
いつもらしくない濡れた希望を、カイトはその指で龍安の髪の毛へ結びつけた。

「すまないな。龍安。」

次に目覚めた時、カイトはきっと龍安のそばに居てやれない。
呼びつけておいて随分と薄情なことだとは思うが、それでも彼のお陰で準備のひとつが整った。
もう未練は残さない。
生き抜いても、命を落としても、愛する者たちとは明日の夜が別れになる。
こんな風に弱い自分ではきっと彼らを守りきることはできない。
それがわかるから――。
カイトは玄関へと出向き、車のキーを手にすると、闇に染まりきった部屋をそっとあとにした。

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