第9章 最後の審判 (1)

最後の審判、それに二度目はないはずだった。
だが今、カイトは間違いなくその瞬間を迎えようとしている。
一度目の失敗を裁かれることなく、黒ずんだ冥府の神によって生きながらえたこの命。
指定された時間、あの日と同じ路地裏にカイトは佇んでいた。
近くにはカフェ・アンダルシアがある。
この場所に来る前、一度だけ会った悠斗の友人を訪ねようと思ったが、気が引けてやめた。
彼のなかでの自分は単純に成り行きで知りあった、ドジな射撃場の従業員でしかない。
そんな男に声をかけられても困るだろう。
そう思った。
カイトは通りがかりのフリをして、アンダルシアの店内を覗く。
しかし店内には腰を押さえながら陽気な笑顔を振りまく店主と人好きの良さそうな奥さんが二人きりだった。
アンダルシア――スペインの南部に位置する明るい国。
典型的な地中海性気候で滅多に雨の降らないその州は、まばゆい太陽の似合う美しい場所だと聞く。
ゆえにそんな場所からやってきたであろう彼らの店を、雪遥が住みこみ先に選んだのは何となく分かる気がした。
遥かな雪を名前に頂く彼は、その名前とは真逆の性質を持っている。
陽気で明るく、気性の朗らかな青年は、きっとこれからも悠斗と仲良くしてくれるはずだ。
都合の良い解釈だとは思うがそれでも悠斗が一人ではないと信じられることで、カイトはより深い覚悟を決められた。
カイトは脳裏にあの日のふたりを描きながら、心の中で礼をする。
そしてこの店がいつまでも悠斗を慰めてくれる場所であるように、小さく祈った。
今夜の襲撃を生き抜けられたら、カイトは旅に出るつもりだ。
涙星の砂浜、遠く南の国にあるおとぎの浜をカイトは探すつもりでいる。
きっと人は馬鹿げていると嘲笑するだろう。
カイトだってこんなことをしようとする自分は馬鹿だと思う。
けれど、もし本当にその浜が見つかったらカイトはきっと悠斗を迎えに行けると思うのだ。
あの夜、悠斗に言ってやった言葉を、現実にしてやれる。
本当にその時がきたら、カイトは悠斗のすべてを愛そうと心に強く決めていた。
カイトと悠斗は同性で、しかも血を分けた兄弟だ。
この事実を悠斗がどう受け止めるかは分からない。
でもカイトは、カイト自身は、神を冒涜したとしても、悠斗が泣いたとしても、もう手放すつもりはなかった。
うっかりと気づかされた執着はきっかけの軽さを忘れ、カイトの身をどこまでも重く濃密な罪で染めていく。
カイトは自らのくちびるにやんわりと触れた。
柔らかく乾いたそれは、凍った風のおかげで随分と冷え切っている。
滑らせた指がくちびるの中央で止まり、カイトはぎゅっと目をつぶった。
悠斗と初めてキスをした夜。
あの日、カイトはおぞましいほどに悠斗への欲望を湧きあがらせていた。
(実の弟にああまでも欲情するなんて、ありえない。)
苦笑を洩らしそうになるくちびるを、カイトはあえてぴっと引き結んだ。
途端、乾いた唇が切れて、血の味が滲む。
覚えのある鉄さびの味。

『次にあんなことをしたら、僕はカイトさんの監視期間を無期限で延長します。』

カイトが故意にくちびるを切ったとき、悠斗はそう言った。
言葉は素直じゃなかったけれど、その時のカイトは悠斗の不器用な優しさを胸の底で嬉しいと思っていたのだ。
そして嬉しいと思いながらその想いの行きつく先を拒むしかなかった。
もうあんな想いはしたくない。
龍安を使ってまで傷つけたのは確実な未来のための一時的な逃避だ。
今夜、決着がついたら、今度こそカイトは自分のために運命の輪を回すことができる。
いつか離れるんじゃないか、いつか互いが見えなくなるんじゃないか。
不安をもちながら生きる未来はすでにカイトの中にはなかった。

午後十一時。
夜を切り裂く風が吹きすさび始める頃、それは上質の獲物を携えてやってきた。
黒塗りの車がカフェ・アンダルシアの前に止まり、悠斗が出てくる。
続いて件の製薬会社社長――リヒャルト・アンハイサーが漆黒の中から現れた。
アンダルシアの扉を叩き、悠斗がなにごとかを言っている。
タリアから事前に聞かされている話によれば彼らは今夜、ドイツへ帰国すると聞いていた。
となれば、おそらく今夜の訪問は帰国の挨拶だろう。
彼らにとってもまた、アンダルシアは命を繋いでくれた恩恵のある場所だ。
カイトは注意深く相手の様子を窺いながら、その時を待った。

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