第9章 最後の審判 (2)

「それでは今、雪遥はここに居ないのですね。」

悠斗が声を沈ませる。
リヒャルトはその肩を叩きながら、悠斗に仕方ないと肩をすくめてみせた。
どうやら雪遥は腰の具合の悪い店主に頼まれて、スペインのアンダルシア州へ旅立ったらしい。
よりによって帰国が月一回の仕入れ日にあたるとは。
普段ならば店主がその手で地元の食材や雑貨を手に入れるため、かの場所へ帰るのだそうだ。
だが今回に限っては店主の持病だった神経痛が悪化して飛行機に乗れそうにもなく、泣く泣く雪遥に頼んだのだと言う。
もともと目利きは良い方の彼だった。
店内に飾ってある雑貨やお客へ出す食器類もちょくちょく雪遥が選んでいたと聞いている。
思えばこの二カ月近く、雪遥にはよく世話になった。
嵐のような襲撃を受けた夜、立てかけてあったこの店の看板に救われ、雪遥に救われた。
夜も深まる時間に大きな物音。
それを聞きつけた彼が来てくれなかったら、悠斗もリヒャルトもここには居なかった。
血みどろになっていた悠斗とリヒャルトを恐れることなく引っ張り込み、応急処置をしてくれた雪遥。
あの細く頼りなさそうな体からどうしてあれほどの力が出たのか。
悠斗にはいまだに謎だった。
火事場の馬鹿力、ということわざが日本にあるが、雪遥はまさにそれだと思う。
勇気と強さと優しさ。
それを兼ね備えた彼は、悠斗に随分と勇気をくれた。
カイトと出逢った数日後、リヒャルトの見舞い用のケーキを買いにアンダルシアを訪れた悠斗は雪遥に言われたことがある。

『悠斗さんとカイトさんって、雰囲気は全然似てないのに、細めた目が似てるよね。』

客観的に見た感想だというのは分かっていたが、その時の悠斗はあり得ないと思った。
あんな怜悧な美貌の持ち主と、自分が似ている訳がない。
口をひらかねば甘さの滲む顔立ちが災いして、普段からただの優男にしか見えないのだ。
それなのに似ているなんて意味が分からない。
そう目だけで訴えれば彼はからからと笑った。

『なんていうの。俺が変なこと言った時に眉間にしわ寄せた顔が似てたから。』

あっけらかんとした理由づけにぽかーんとしたのを、悠斗は今でもことさら鮮明に記憶している。
その時の悠斗は雪遥の頭を軽く殴っただけで会話を終わらせたが、のちに悠斗はその言葉を大切に思うようになった。
雪遥は見てないようで見ている。
観察力があるとは言わないが、それでもちょっとしたことに気がつく人間だった。

『最近の悠斗さんは丸くなったね。前みたいにつっけんどんじゃなくなったと思うよ。』

にこやかにそう言われたのはカイトの部屋へ通うようになってから一週間ほど経ったあとだ。
彼にはなんの悪気もない言葉だったのだろうが、その時の悠斗には心臓に悪い言葉だった。
実際に言われるまでもなく、悠斗は自分の変化を自覚している。
今だから白状してしまえるが、この頃の悠斗は初恋に浮かれる少女と同じだった。
ただ、会えるだけで嬉しい――。
思えばカイトと出逢った頃の悠斗は自分たちを狙った殺人未遂犯を追うことに躍起になっていた。
だからエイベルのSPとしてパーティ会場に紛れこんでいるカイトを見た時、彼を逃せないと本能的に感じていた。
悠斗には幼いころ、財閥の息子として何度も誘拐されかけた過去がある。
だからこそ、危険な匂いのする人物については恐ろしく嗅覚が鋭敏だった。
そしてあの発砲だ。
サイレンサー付きの銃で見事に狙いを定め、狙撃する彼の姿は十分手慣れているように見えた。
頬に怪我をしたままエイベルに目礼し、パーティ会場をあとにするカイト。
それを見て悠斗もすぐに彼の背を追いかけた。
けれど、悠斗はすぐにそれを見失ってしまった。
非常階段を下り、通用口を出るまでは追いかけることができたが、その後彼は忽然と姿を消したのだ。
それでも諦めきれず、三十分ほど彼を探していたのだが手掛かりは一切なかった。
悠斗は仕方なくホテルへと向かって踵を返す。
リヒャルトの名代として出ていたパーティもこんな事件があればお開きに違いない。
ならば危険な場所への長居は無用だ。
クロークに預けていた荷物を受け取るためだけに、ホテルへ戻るとその足でカフェ・アンダルシアへ向かった。
コートを着込んでロビーを出る。
幸いなことにアンダルシアは歩いて十分もしない場所にあったから、悠斗は歩いてそこへ向かうことにした。
深夜にさしかかったせいで、閑散としはじめたストリートをただ黙々と歩く。
薄暗いオレンジの街灯が心もとなく道を照らし、悠斗は歩みをゆるめた。
寒くなってきた外気に空を見上げ、その理由を悟る。

「雪だ…。」

呟いて両手を差し出し、悠斗はいくつか先の街灯へと視線を落とした。
その先にダークスーツを纏った長身の男が佇んでいる。
彼は煙草を手に、濃い灰色の空気を吐きだしていた。
(あいつ…。)
顔はしっかりと見えないのに、悠斗はそれを『彼』だと認識していた。
悠斗の鋭い嗅覚は今まで一度の間違いも犯したことはない。
忍びよる気持ちで悠斗は足を進めた。
一歩、二歩、三歩――。
近づくごとに彼の表情が闇に浮かびあがって、悠斗は息を飲んだ。
端正な顔立ちをした、苦しげな死神。
彼は青ざめたくちびるを噛みしめ、ぎゅっと目を閉じている。

「あの、大丈夫ですか?」

気がつけば悠斗は声をかけていた。
死神はひとたび目を見開くと、くちびるに挟んでいた煙草を落とす。
それが彼との始まりだった。
よく考えれば、きっと自分はその時から彼に惹かれていたのだと思う。
監視を理由に何度か通ううち、悠斗はカイトの孤独を知った。
彼は常に何かと闘い、耐えている。
それを肌で感じて、愛しさを覚えて、それから――。
悠斗は思い起こすのをやめ、強く首を振った。
(こんな風に恋い慕っていても、彼は、カイトさんは僕を選ばない。)
たまに鏡の前で細めてみていた瞳に薄く涙が滲みそうになる。
雪遥が似ていると言ってくれた目だ。
(もうやめなければ。)
そう思うのに、心は言うことを聞いてくれなかった。
キスをされたくちびるに触れる。
勇気を出した夜は謝罪の言葉で終わった。
でも後悔はしていない。
悠斗は今ごろ強い陽射しを浴びながら元気に跳ねまわっているに違いない友人を思い、
滲みそうになる苦笑を咳払いでねじ伏せた。
(雪遥のおかげで、僕は大切なものをもらった。)
悠斗はアンダルシアの主人とその隣に立つ奥さんにもう一度会釈すると、
リヒャルトの背に従い、きりっとした様子で彼らに背を向けた。

Next