第9章 最後の審判 (3)

午後十一時十三分。
ターゲットが動き出す。
カイトは腕に巻いた古いアナログ時計が、その時を刻む音を聞いた。
大きく刻まれたかちっという音とともに身をひそめていた場所から足を踏み出す。
よく使いこんであるなめし皮のミリタリーブーツを滑らせ、カイトは銃を構えた。
上質なブラウンのスーツを着た、かの経営者の心臓に的を絞り、カイトは狙いを定める。
あの日と同じ路地裏、あの日と同じ時間、あの日と同じ彼らの背中――。
すべてが同じなかで、カイトの心だけが変わっていた。
偶然の再会を果たした弟。
悠斗を迎えに行き、ともに暮らす未来だけが今、カイトの心を支えている。
カイトに飼い主など存在しない。
存在するのは悠斗への想いだけだ。
カイトが失態を冒した夜、ドン・ガヴリロヴィチが課した問いの答えはすべてこの胸の中にあった。
ドン・ガヴリロヴィチはおそらくこの近辺で高みの見物を決め込んでいるだろう。
もしくは部下がカイトの様子を監視しているかもしれない。
しかし、そんなものに怯む気などカイトには毛頭なかった。
今夜こそ己の任務を遂行する。
決意を胸に秘め、血の乾いたくちびるをひいて、カイトは引鉄に力をこめた。
三秒、二秒、一秒――。
直後、銃弾の音があたりに響き渡る。
しかし、この音はカイトのものではなかった。

「…っ!」

音のした方を振り向けば、そこには黒いサングラスをかけた集団と上品なシルバーのスーツを着た紳士が立っている。
いや、紳士というにはその男の風貌はあまりに獰猛すぎた。
冷笑をくちびるに浮かべ、彼は勝ち誇ったように立っている。
彼はカイトの姿を確認すると一度だけ銃口をこちらへ向け、そして間髪いれずにそれを今夜の獲物へと向けた。
人の命をもてあそぶ者の指先、視線が楽しげに彷徨い、今にも引鉄をひこうとしている。
カイトはそれがまっすぐに定められた場所を認識した途端、ほとんど反射的に路地の中心へと飛び出していた。
瞬間、それを追うように頭上から銃弾の雨が降り注ぐ。
(悠斗――!!!)
カイトが悠斗を抱きこんだ瞬間に、いくつかの銃弾がその背や足へと突き刺さった。
熱い、空虚な衝撃が咆哮をあげながら、何発もカイトの体に食い込んでいく。
血しぶきのあがる体がどさりと倒れ込み、悠斗はカイトの体の下敷きになった。
けれどカイトはそれに構わず、悠斗を抱きしめ続ける。
絶対に悠斗だけは失うわけにいかない。
体の下で悠斗がなにかしら声をあげてもがいているのを黙らせるように、カイトは腕へと力を込めた。
まだ、銃撃の雨がふりやまない。
応援にでてくるはずのマルスも、なぜか出てこなかった。
暗闇に倒れ、凶弾の雨粒を受けながら、カイトはすべてを悟る。
もともとこういう計画で、組織の上層部とドンは事を進めていたのだ。
最初からカイトを処刑することが、今日の目的だった。
一度失敗を犯した者を生かしておくほど、黒の社会は、組織は甘くない。
そんなこと、とうの昔から知っていたはずなのに――。
自分の迂闊さに嫌気がさす。
自分だけならまだしも、結果的には悠斗まで巻き込んでしまったのだ。
心から守りたいと願ったものを、自分はどうしていつも守りきれないのだろう。
カイトはなんとか悠斗をかばったまま壁際へよけるため、体を起こそうとした。
痛みに呻きそうになった直後、今度は路地の入口から銃声と誰かが走り込んでくる音がする。

「おいっ!しっかりしろ!」

聞き覚えのある声に、カイトは力を振りしぼって顔をあげた。

「龍、安…。」

彼はいつものアオザイではなく、男物の格好をしている。
龍の絵が金糸で縫われた黒のチャイナ服に黒のパンツ姿だった。
いつもと違う、金色に底光りする目もまた、裏社会に生きる者のそれに違いない。

「カイト!悠斗も!大丈夫か!」

部下に周囲を囲まれながら、龍安がふたりのそばへ跪く。
青ざめた悠斗がカイトの体の下から出てくる前に、龍安がそれを背にかばった。

「……っ。カ、カイトさん。カイトさん!!!」

大量の血にまみれた悠斗が、呻くようにカイトの名前を呼ぶ。
カイトはできるだけ悠斗を安心させようと、今できる精一杯で微笑んでみせた。
目の前に座り込んでいる悠斗のスーツは血で汚れているが、おそらく怪我を負ってはいないだろう。
カイトは悠斗の身を守ってやれたことに少しだけ安堵する。
けれどその間もカイトの体から溢れだす血は止まることを知らないようだった。
カイトの体はもう、痛みもなにも感じることができない。
握ろうとした拳には力が入らず、カイトはそのままコンクリートの地面へと頬を落とすと目を閉じた。
間もなく誰かがそばににじり寄ってくる音が聞こえる。

「カイトさん、だめ。いやだよ。寝ちゃ、だめだよ。カイトさん、起きてて。お願い。」

鼓膜に響く鼻声にカイトが薄く目を開ければそこには涙を堪えようとする悠斗がいて、カイトの背にある傷口へ手を伸ばしていた。
しかし、それが応急処置にもなりはしないことをカイトは知っている。
震える手で傷口を押さえられ、抱きしめられながら、カイトは何度も呼ばれる自分の名前に聴き入った。
なんて甘く、愛しい響きだろう。
あっけなく訪れた幕引きのときに、世界で一番愛している人が自分の名前を呼んでくれる。
これはカイトにとって夢や幻に近いことだった。

「カイトさん、カイトさん、カイト…さんっ!」

必死に繋ぎとめようとする声が不意に遠ざかっていく。
それが怖くなって叫びたくても、叫んでも、声は出なかった。
なぜ、言うことを聞いてくれない。
そんな自分の体が何よりももどかしい。
できることならば今すぐに悠斗の名前を呼び、愛する弟を抱き締めたいというのに――。
悔しさの渦のなか、カイトは今までにないほど体が重くなっていくのを止められない。
蒼白になったくちびるから、かすかな呼吸だけを辛うじて吐き出し、心の中では悠斗の名だけを呼んだ。
(悠斗。悠斗。悠斗………っ!)
叫べば叫ぶほど、求めれば求めるほど、悠斗が遠くなっていく。
昔、母親の腕のなかで悲鳴をあげていた悠斗の手もカイトは掴んでやれなかった。
(ああ、また同じことを、俺は――。)
走馬灯のように巡りはじめる記憶にカイトはきつく目を閉じた。
大切な温もり、遠ざかる小さな影、真っ赤だった夕暮れ。
これから馬鹿だと言われるほどに大切にしたかった存在が、ゆっくりと見えなくなっていく。
(ああ、ごめん………ごめん。悠斗。)
涙が零れる瞬間、カイトはぎゅっと奥歯を噛みしめた。
頭上で今まで聞いたこともないほどの悲痛な叫びがこだまする。

「…っ、やだ。いやだ。やめて。いかないで。
 カイトさんまで僕を一人にしないで!僕を置いていかないで!」

頬に落ちてくるのは悠斗の涙だろうか。
ほんのりとした温かさがカイトの心には、とても痛かった。
痛くて、痛くて仕方がないのに、白くもやがかかってしまった視界にはもう、なにも映らない。

「悠、斗…。」

せめてもう一度と手を伸ばそうとしても、カイトの手は悠斗の頬へ届くこともなく地に落ちる。
冷たくなった指先はぴくりと動くだけで、これ以上のことはできそうもない。
すでに自らの体温さえも感じられなくなった体で、カイトは頬に落ちる温かい雫の熱だけを感じていた。
もう、二度と、撫でてやることさえできない。
つくづく、カイトは悠斗を泣かせるだけのどうしようもない兄だった。
その事実が今、何よりもつらくて、とてもかなしい。
もっともっとそばで笑わせてやりたかったのに。
笑顔を見ていたかったのに。
今更そんなことを思う自分はなんて間抜けなのだろう。
悔しくて、悔しくて、やるせなくて。
カイトが流せない涙の代わりに浅い息をつくと、重だるくなっていた手がふわりと宙に浮いた。
さして柔らかくもないそれを、温かな手が、自らの濡れた頬へ導く。

「カイトさん、寒いでしょう?指冷たくなってるもんね。
 でもカイトさんは大丈夫だよ。僕が居るから…。
 ずっと温めていてあげる。だから起きていて…。お願いだから、起きていて…。」

涙声が痛々しくて慰めてやりたいのにおそらくもう、そんな時間は残されていない。
カイトは無い力をふりしぼると、悠斗の手を握った。

「ごめ、んな。悠斗。悠斗、ごめ………ん。」

涙の滲む眦に悠斗が縋りついて、キスをする。
いやいやと首をふりながら、カイトの耳もとでいかないで、いかないでと何度も繰り返した。
奪われていく体温を必死に繋ぎとめようとする悠斗の姿が、とてもせつない。
(悠斗のために、涙星の砂浜を見つけてやりたかった。)
未練がましくも一緒に暮らすはずだったその場所を見つけられなかったことが、今のカイトには一番の心残りだった。
真実を口にせず、最愛の弟の腕のなかで、愛されて死んでいくカイトを、神は許してくれるだろうか。
いや、許されないからこそ血を分けた兄弟でありながら心で愛しあった二人を、神は引き離すのだと思う。

「悠斗…。愛して、いたよ。誰…よりも、お前、だけ。ずっと。」

カイトは力なく微笑みながら、悠斗の手をもう一度握った。
切れ切れの息にカイトの力が薄れて、眦を伝った雫が徐々に温度を失くしていく。

「お前だけ、愛して…る。」

愛しい、愛しい、俺だけの悠斗――お前が俺のすべてだ。
いつかまたお前に出逢える時が来たなら、今度は絶対に離さない。
言い切れなかった言葉を飲みこんだ直後、咳きこんだカイトの口もとを大量の血が濡らした。
もうこの体に悠斗の体温は感じられない。
カイトは混沌としていく意識のなか、一番幸せだった日々を思い出す。
互いの温もりを求め、抱き合い、眠ったあの頃。
罪とひきかえのキスを貪りあった一度きりの夜。
どれもがカイトのなかで煌めいて、揺らめいて、色を変えては霧散する。
光を失った想い出は、すべて綺麗なセピア色に染めあげられた。
カイトの手が完全に力を失い、路地の冷たい石畳に落ちる。

「いやだああああああああああ――っ!!!」

響き渡る絶叫のなか、目を閉じ、息を失った美貌の人はそして、帰らぬ人となった――。

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