第10章 真実 (1)

発狂したように叫ぶ悠斗の前で、ドン・ガヴリロヴィチはうっすらと満足げな笑みを漏らす。
対して香港一のマフィアである劉一家の若頭は、沈黙のうちにルスカーヤ・マフィアのドンを一層鋭くねめつけていた。
(リヒャルトが手を打ったのか…。)
ドン・ガヴリロヴィチは心のなかで舌打ちをする。
自分のファミリーが劉一家に対し、決して劣っているとは思わない。
しかし、ドン・ガヴリロヴィチにとっての余興が幕を引いた以上、ここに居る理由はなかった。
『親友』は怒るかもしれないが、かの依頼はあくまでも組織が遂行するものだ。
その担い手が死んだ今、リヒャルトの行く末など自らの責任の範疇にはない、と彼は認識している。

「劉龍安。私の名はヴィクトール・ガヴリロヴィチ・メルツァロフ。
 メルツァロフ・ファミリーのドンだ。かの葬送者の命は失敗の代償として私が頂いた。
 もうお前たちに用はない。命が惜しくば立ち去れ。私にはお前たちと争う意思など無い。」

ドンが荘厳とも言える低音を響かせると、対峙している龍安の表情はまたも険しくなった。

「自分の子飼いを殺しておいて、随分勝手な言い草だな。」

龍安に吐き捨てられ、ドンはつまらない冗談でも聞いたというような表情で目を見開き、そして冷たい嘲笑を若頭へと向ける。

「ふん。お前は、ダンテの『神曲』も知らないと見える。」
「何――?」
「ダンテの神曲で最も重い罪とされている罪は裏切りだ。
 奴は私の期待を一度裏切った。だから私がこの手で始末させてもらった。
 殺しがいのある人間に育てあげるまでは骨が折れたが、その分殺しがいはあったと評するべきか。
 葬送者もあのまま諦めた目で生きていれば殺す価値などなかったものを。本当に、勿体ないことだ。」

楽しげに歪むくちびるが、くくっと声を漏らす。
龍安のさし向いに立っているドンは、もはや人間ではなかった。
畏怖と力だけで人々を押さえつける冥府の王。
神になど絶対になれぬ男が、開いてしまった地獄の門を正当化しようとしている。
背中の向こうで絶望に濡れた悠斗を、カイトはなんと思うだろう。
守りきれなかった己の不甲斐なさに、龍安は胸が突き刺される思いだった。
龍安は銃口をドンの心臓へと向けたまま、ギリギリと奥歯を鳴らす。
しかしながらドンはそんな龍安を歯牙にもかけない様子で、ゆったりと数メートル先の階段上から龍安を見下ろしてきた。

「劉龍安。貴様もファミリーの跡目を継ぐなら覚えておくがいい。
 『この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ』それがお前に待つ人生だ。
 かの葬送者はそれができなかった。だから命を落とすはめになったのだ。」

高く嗤う男を、龍安はこれ以上ないほどに睨みつける。
(憎い。憎い。この男が死ぬほど憎い。)
口の端をきつく釣りあげた龍安が引鉄に力をこめると同時に、ドン・ガヴリロヴィチは龍安へ背を向けた。

「撃てるなら撃つがいい。
 お前の家族を、大切な人間を、すべてを捨てる覚悟があるのなら。
 そこに寝ている屍のようになりたくなければ、その銃を降ろすことだ。」
「ふざけるな!」

叫んだ声を聞かず、ルスカーヤ・マフィアの魔物はゆったりと漆黒のなかへ消えていく。
このまま逃がしてなるものか。
美しかったカイトをこんなにもズタズタにして、あまつさえ屍と呼んだ。
こんな男を生かしたまま帰してなるものか。
自分の喜悦のために他人の人生を狂わせる人間など、生きていていいはずがない。
龍安が再び引鉄をひこうといよいよ指先に力をこめた瞬間、後ろから悠斗の悲痛な声が響く。

「もういい!やめて!龍安まで命を無駄にしないで!
 カイトさんは、あなたまで死ぬことは絶対に許さない。だから、もう…やめて。」

細くなる声が震え、悠斗が俯いたのがわかった。
振り返れば頬を涙でぐしゃぐしゃにした悠斗が、血だらけの手でカイトを撫でていた。
力のない指先で、温度を失ったカイトの頬を、何度も、何度も――。

「ねえ、そうでしょう。兄さん――。」

呟いた悠斗の瞳からまた一つ、失意に濁った涙が零れおちる。
兄はこの先もう二度と、悠斗に微笑みかけてはくれない。
引き裂かれた痛み、動かなくなった影、真っ赤だった夕暮れ。
幼くして別れてしまったあの日と同じように、兄も、兄の温もりも悠斗のそばから遠く、遠く離れて、消えていく。
失ってすべてを思い出すなんて、自分はあまりにも間抜けだった。
大きな愛情で悠斗を慈しみ続けてくれた唯一無二の大切な兄はもう、死んでしまったのだから。
泣いても泣いても枯れない涙は、止まらなかった兄の血と同じ色をしている。

「苦しかったよね。辛かったよね。ごめんね。
 生きてるうちに思い出してあげられなくて、ごめんね。兄さん。大好き、大好き…。」

囁きながら兄の遺体に縋りつく悠斗を、その場に居た誰もが引き離すことはできなかった。
真夜中の路地裏に、悲痛な泣き声だけがこだまする。
悠斗は淡く微笑んだまま目を閉じてしまった兄を強く抱きしめながら、途方もない時間、泣き続けた。

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