第10章 真実 (2)

衝撃に啼いた記憶が、悠斗にどこまでも鮮明な兄の笑顔を思い出させる。
悠斗は今日、龍安に付き添われ、亡き兄のアパートへとやってきていた。
埃っぽくなった床には陽だまりができて、やわらかな温みを宿している。
あの日から、悠斗は精神的なショックで高熱を出し二週間ほど入院を強いられていた。
そのあいだにリヒャルトは帰国し、騒動の根源を一掃したそうだ。
現在は売却先日本企業のドイツ支社として体制を維持しているが、経営権の一切は無いと聞いている。
ちなみに売り先の企業は芹澤製薬と言い、日本での市場シェアはナンバーワンの企業だそうだった。

『要らぬ争いは私の望むところではない。
 故意の犠牲のうえに成り立つ会社など、遅かれ早かれ足もとを救われる。』

病床の悠斗を見舞ったリヒャルトは苦い面持ちでそう言った。
リヒャルト自身、受け継いできた会社を手放すのは相当に思い悩んだのだろう。
故意の犠牲のうえ、と濁してはいたが、悠斗の気持ちもまた少なからず考えてくれたのに違いない。
そのことに対して悠斗はリヒャルトに申し訳ない気持ちがありながらも、違うところではわずかばかり安堵していた。
もうこれでリヒャルトまでもが命を落とすことはない、と――。
今でも目を閉じれば、悠斗のまぶたの裏には兄の最期が浮かぶ。
死ぬ直前になって、悠斗の手を握りながら愛していると言ってくれた泣き顔の兄だ。
悠斗はもう、自分を慈しんでくれた人たちを見送るのは嫌だった。
だからリヒャルトが謀略の渦巻く会社を手放してくれたことは、悠斗にとっての吉報でもあった。

「おい、悠斗。今日は何しに来たか覚えてるか?」

隣から柔らかい声が響き、声の主が悠斗の指先を絡めとる。
初めて会った時よりもずっと優しくなった彼は、悠斗へとそっと心配する視線を送ってきた。

「うん…。」

弱く頷くと、彼はよしよしと大きな手で悠斗を撫でてくれる。
カイトと同じくらいの速度でゆるく撫でられると、悠斗は涙が出そうになった。
彼は、龍安は悠斗の入院中、何度となく病室へ足を運んでくれ、体を気遣ってくれた。
退院してからもあまり食欲のない悠斗にフルーツや軽い食事を持ってきては長い時間、時には日が沈むまでそばに居てくれる。
最初はこんな風に甲斐甲斐しくされる筋合いなどないと思っていたのに、
いつの間にかそんな想いは消え、その代わりに混乱と戸惑いだけが心の中に増えていた。
彼の稼業は兄を殺したマフィアと同じだ。
だから心は許すまいと思うのに、気がつけば近くにいる彼の存在に心を温められていて惑乱する。
暗い顔になった悠斗の横で、小さなため息がひとつ零れた。

「時間が限られてる。ひとまず、必要なものを運び出そうな。」

言い含めるように募られて、悠斗は頷くしかない。
多分、龍安は悠斗が兄の部屋でまた悲しい想いに囚われたのだ、と思ったのだろう。
もちろんそれは間違いではないが――。
悠斗が立ち止まったままぼんやりしていると、年下の彼はカイトの部屋のクローゼットを順々に開けていく。
(随分、手慣れてるんだな。)
兄が亡くなる三日前、この部屋でくちびるを合わせていた龍安を思い出すと、悠斗は喉の奥が苦しくなった。
この人は自分の知らない兄の姿を知っている。
それが悔しくて悠斗はその後ろ姿へと毒づいた。

「龍安って、遠慮なさすぎ。」
「何が?」
「兄の部屋を、強盗みたいに荒らすな!」

言うだけ言って背中に怒りを纏ったまま、悠斗は龍安に背をむける。
こんなのは八つ当たりだと思うのに、悠斗はあの日からずっと理性での自制がきかない。
龍安は参ったな、といった様子で悠斗の背を見つめながらも、結局は何も言わなかった。
ガサガサと控えめな音と、ドアの開閉する音が聞こえる。
一応はさっきの言葉に気遣ってくれているらしい。
悠斗は自分の中にある情けない心を押し隠すと、龍安が開けたクローゼットの棚を見ることにした。
ずいぶんと小綺麗に整頓されている。
部屋のほとんどは悠斗が通っていた頃とあまり変わっていなかったのに、そこだけが異様なくらいに綺麗だった。
もともと兄の生活に人の匂いはなかったけれど、目の前にある荷物たちにはそれ以上に生活感がなくなっている。
まるでこうなるのを分かっていたかのように、あるいはこうなるかもしれないと悟っていたかのように、温度が失われていた。
悠斗は震える指先で残されたものに触れる。
ひとつ、ひとつ、綺麗に畳まれているのはわずかばかりの黒い洋服だけだった。
あの夜悠斗に貸してくれた寝間着は無くなっていて、兄がたまに読んでいた本も、愛用していた灰皿もなくなっている。
縋るようにひとつずつ棚を開けたところで、探るほど中身のない棚に涙がじわりと湧いてきた。
こんな風に別れるかもしれないと分かっていたのなら何故、もっと色々残しておいてくれなかったのか。
ひとつでも兄を偲べるものがそばにあれば、少しは果ての無い悲しみに耐えられる気がしていたのに。
湧き上がりそうになる涙をこらえながら最後の棚を開くと、そこには見覚えのない小包がぽつりと置いてあった。
(何だろう、これ?)
左手で涙を拭いながら、その小包を手に取ってみる。
それはあらゆるものが無くなっている中で、唯一わざと残されていたとしか思えない荷物だった。
包み紙を持つ手が震える。
悠斗は小包を膝に乗せると、丁寧にそれを開いていった。
カサリ、カサリと乾いた音に、悠斗の大きな鼓動が共鳴する。
膝に乗せていた小包から出てきたのは見覚えのある古びた絵本だった。

「星砂ものがたり…。」

見覚えのあるそれは、悠斗が何度も何度も、あの約束とともに思い出していたものだ。
表紙には静かな海に寄りそう白砂と白い月、そして満天の星が描かれている。
悠斗は手にした絵本の扉を優しく、やわらかく、一度、二度と何度も撫でた。
今にも星たちの歌が聞こえてきそうな幻想的な絵に、心が深く、強く吸いこまれていく。
悠斗は衝動に任せ、日に焼けて古びてしまった絵本の扉をめくった。
同時に何かがハラリ、と落ちる。
二枚散り散りに落ちたのは写真だった。
一枚は色あせていて、一枚は鮮やかな――。
悠斗はそれを一枚ずつ手にとると、最初は表を、次は裏を順番に見ていった。

『海斗八歳、悠斗六歳。西宮家離れにて。』

達筆な文字でそう書いてあったのは色あせた方の写真だ。
この文字には見覚えがある。
当時、海斗と悠斗の世話をしてくれていたばあやのものだ。
母がおかしくなってから会えなくなった時もどうにかして自分と兄を会わせようとしてくれた人。
優しかった温かな手を、悠斗の手がじんわりと思い出す。
結果的にあの日からふたりの運命は引き裂かれてしまったけれど、
それでもあの時兄と約束を交わしていたから、悠斗はここまで生きてくることができた。
悠斗は懐かしい文字をなぞりながら、幼い自分たちの姿に目を細める。
四隅の白い部分が暗褐色に色を変えつつあるそれは、二人が紛れもなく兄弟であることを証明していた。
ぽたり、ぽたりと音がして悠斗は歯を食いしばりながら上を向く。
兄がこれを持っていたということは、やはり兄は最初から気づいていたということだろう。
それなのに自分は愚かしくも兄に恋をし、それとは知らずくちびるまであわせた。
そうして知らずのうちに兄を傷つけ、苦しめるだけの存在にしかなれなかったことが、今は悲しい。
こんな罪深い兄弟など引き裂かれて当然だったのかもしれない。
けれど悠斗自身、兄に恋をしたことだけは後悔したくなかった。
これは運命が引き裂いた兄弟という絆を、恋で取り戻してしまっただけなのだ。
だから悠斗は兄と過ごした時間を決して忘れはしない。
それが心から愛した兄に、カイトに贈ることができるたった一つの誠実さだと思うから。
悠斗は温かな日々を切り取った一枚を元に戻すと、今度はもう一枚の方を手に取った。
こちらはまだ新しい、どこかの風景を移した写真のように見える。
眺めただけではイマイチどこの写真なのか分からず、悠斗はそれを裏返した。
同時に美しい流線型を描いている文字が目に入る。

『涙星の砂浜。いつか必ず、悠斗と一緒に暮らす!!!』

力強く書き記されていたそれは、、日本語で書かれた線の細い文字だった。
(兄さん――っ!)
反射的に涙が出てくるのを、悠斗はまったく堪えられない。
一粒、二粒と降りだした雨が大降りになるまで、ほとんど時間はかからなかった。
(兄さんの決意って、希望ってこれだったの…?)
喉の奥がつっかえて苦しくなる。
苦しくて、苦しくて、声が出ない。

『あのまま諦めた目で生きていれば殺す価値などなかったものを。』

フラッシュバックしたテノールが反響して、悠斗の鼓膜を切り裂いた。
亡くなった兄を屍と呼び、嬉しげに語っていた彼の歪んだ表情が目蓋の裏へ浮かぶ。
ルスカーヤ・マフィアの頭領は兄の希望となるものを知っていて、それを餌のようにばらまいたのだ。
それどころか、わざわざ据えてみせたのかもしれない。
自分の愉悦のために――。

「僕さえ、近づかなければ。」

後悔にも似た呟きが、ぐるぐると壊れたテープに巻きとられていく。
あのパーティでSPをしていた兄との出逢いも、
こじつけの理由で兄の部屋に通うことができた日々も、
すべてがあの男によって計算されていた罠だったということか。
そう考えればすべてに合点がいって悠斗は茫然と自分の手のひらを見つめた。
普通、あれだけアジトに通っていて組織が何も言わないなんてそもそもおかしかったのだ。
悠斗の素性を知っていて、兄の素性を知っていて、二人を近づければ磁石のようにくっつくとドンは知っていた。
そして機が熟した頃にそれを狙えば、カイトが弟を守ろうとすることまで計算したうえで、彼は事に及んだに違いない。
それを不思議にも思わなかった自分はどうしてこんなにも間抜けなのだろう。
自分は名実ともに兄の命を追い詰めていた。
頭の中にガラスの割れる音がして、跡形もなく粉々になる。
(自分が憎い。憎くて仕方がない――!)
爪をぎりぎりと手のひらに食い込ませ、悠斗は嗚咽を堪えた。
いつでも、どんなときでも、自分のことより悠斗を優先し、守り温めてくれていたのはカイトだったのに――。
気づかされた現実に、あの日断ち切られた薄く細い糸がゆらゆらと揺れて、二本並行に垂れている。
もう二度と、これが交わることは、ない。
分かっていたはずなのに、張り裂けてしまった胸はおびただしい量の血を吹きあげた。
(ごめんね――兄さん、ごめん。)
写真を抱きながら、悠斗は昔、カイトが言ってくれた言葉を思い出す。

『僕はね、悠斗と居る時が一番幸せだから。だから泣いちゃうんだよ。
 僕にとって悠斗と一緒に居られる場所だけが、あの星砂たちの歌う砂浜みたいなものだから。』

いつも、いつも、いつも、兄を泣かせるのは自分だったのに、兄は本当に幸せだったのだろうか。
兄の綺麗な泣き顔が幾重にも重なって、悠斗は歯を食いしばった。
吐き気と眩暈が止まらない。
嗚咽とともに溢れだしそうな言葉を悠斗は必死で我慢する。
(やっぱり僕が、僕さえいなければ!!!)
力を失った足にひきずられ、悠斗はその場にうずくまった。
白い額を何度も床に擦りつけ、自らを罰するように何度も打ちつける。
皮が薄くめくれて、やがてその場所にはじんわりとした痛みが走りはじめた。
それでもやめられなくて、悠斗は言葉を噛むかわりにそれを繰返す。

「……っ!悠斗!お前は何をやってるんだ!!!
 自分で自分を傷つけるなって、いつも言ってるだろうが!」

物音を聞きつけたのか、嗚咽を聞きつけたのか、
洗面所の方へ行っていたはずの龍安が戻って来て、半ば無理矢理に悠斗を床から抱きおこす。
声は低く怒っているのに、龍安が悠斗を揺さぶる腕は優しかった。
今まで何度も何度も心配してくれた、龍安の腕だ。
悠斗はそれを掴んで縋ると、震える声で呟いた。

「ねえ、やっぱり僕が兄さんを殺したんだよね。」

それは不安をそのまま形にした言葉だった。
聞いた龍安の顔がみるみるうちに険しくなり、縋る悠斗を引き剥がす。

「どういうことだよ。そんなわけあるか!」
「でも!あの悪魔みたいな男が言ってた!
 兄さんは希望を持ったから、生きようとしたから、殺したって。
 殺されなきゃいけないほどの希望を持たせたのは、僕だったんだよ!」

手にしていた写真を押しつけながら、悠斗は呻いた。
か細い嗚咽が響き、龍安の腕のなかでこだまする。
龍安は悠斗の手のなかでぐしゃぐしゃになりかけているそれを受け取った。
表を見て、裏を見る。
龍安の指先がスローモーションを描いていた。
指先にあるそれは今まで龍安も見たことがないくらいに強い希望に満ちた文字でしたためてある。

「涙星の砂浜。いつか必ず、悠斗と一緒に暮らす――あんの、大バカ野郎…っ!」

思わず口にしてから、龍安は悠斗の背を強く抱きしめた。
カイトがどんな想いでこれを書き残し、ここに置いて逝ったか。
これを見た悠斗がどんな想いでこれを受け止めたのか。
考えただけで、龍安の胸も息苦しいほどに疼き出す。
(俺を利用してまで悠斗を遠ざけたくせに、未練なんか残しやがって。カイトの――バカが!!!)
思えば思うほど、この想いを直接カイトへぶつけられないのが龍安には辛かった。
生きたかったくせに。
手放したくなかったくせに。
やっと見つけた希望を――お前は。
悲壮な人生じゃなかったと、誰が言えるのだろう。
少なくともこんな苦しい想いを残して死んだ人間を、龍安は他に知らなかった。
ただ、愛する者とともに生きようとしただけなのに、ドンは遊びでも嗜むようにカイトを磔にしたのだ。
龍安の頭の中に、カイトの胸へ刻まれていた十字傷が蘇る。
カイトの体、鎖骨から脇腹のあたりに向かって、赤くおぞましい濃さの傷跡があった。
普段はタートルネックしか着ない男だったから全く気づかなかったが、その痛ましさといえば尋常ではなかった。
おそらくあの傷は一度目の失敗の時に制裁のためにつけられたものだろう。
リヒャルトからこの仕事を受ける際、悠斗とともに狙われこそしたが無事に生き延びることができたと聞いている。
すなわちそれはカイトが引き受けたであろう『暗殺任務の失敗』を意味していた。
マフィアの仕事を受け、それを全うできなければ殺す。
それがアリアドネの、ひいてはマフィアのやることだと龍安は知っていた。

「うぬぼれんなよ!このバカ弟!」

突然の大声に悠斗の体がびくりと震える。
龍安は悠斗の頬を両手で包むと、しっかりと自分の目を見させた。

「カイトが死んだのはお前のせいじゃない。
 カイトはお前が居なくてもどの道、殺されてた。
 あいつだってマフィアの仕事を受けるということがどういうことか知ってたはずだ。
 それを覚悟のうえで受けた以上、結果は同じなんだ。何があっても絶対に悠斗のせいにはならない。」
「だからって兄さんが死んでいい理由なんてどこにもないじゃないか!
 僕のことなんかを守って、良いように弄ばれて…何がマフィアの仕事だよ!
 マフィアだからって人の命を弄んでもいいなんて決まり、どこにもないはずだろ!」
「ああ。だから、だから俺たちが悪いんだ!俺たちが、他人の生を貪ることでしか生きられないから。」

強く抱きしめる龍安の腕が、悠斗の体を軋ませる。
だが悠斗はそれを痛いとは思わなかった。
龍安が必死に何かを押し殺そうとしているのがわかる。
本当は悠斗にだってわかっているのだ。
誰が悪いわけじゃない。
少しずつの偶然と悪意が重なって終末の扉を開いてしまっただけだということくらいわかっている。
だからこそ失った悲しみが色濃くて、どうしても埋めることができない。
だから自分も、龍安も、みんな、ずっと苦しい。
悠斗は小さな呼吸を繰返したあと、龍安の背へおずおずと手を伸ばした。
震える肩に指先を乗せ、もう片方の手で龍安の背を撫でる。
(ごめん、ごめん。龍安――。)
悠斗は謝罪の言葉を心の奥で繰り返すと、痛む額を龍安の肩へ押しつけ、きつく目を閉じた。

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