Tale of Amethyst(1)

五月の風が吹く――さらりと揺れる草木の音に誘われて、夕暮れの木陰に佇むのは遠いあの日の夢。
足もとを撫でる人影の長さはいつの春も変わらず、変わっていくのはこの心にある記憶の戯れだけだ。
オレンジ色の空に向かい、目を閉じて、いつも想い浮かべるのは高校時代に何度も行き帰りを繰り返した、土手の景色。
――あそこでいつも、俺は移り変わっていく時の流れを感じていたっけ…?
追憶に誘われるまま、仕事帰りにふらふらと歩いてたどり着いたのは、風と水の音と若草の囁きだけが集まる場所。
衛は足もとに咲く小さな白い花をひとつ手に取って眺めると、傾きを増した太陽に翳してみる。
この花はきっとどんな場所にでも咲いているんだろうけど…。
――もし、自分の大切な人に最高の贈り物をしろと言われたら。
なにを差しだすだろうと頭の中で考えながら、衛はその場に蹲って、言葉もなく不器用な指先を動かしはじめる。
この身を包む景色が刻々と色を変え、手もとが見えなくなってしまう前に…。
不確かでも、確かにこの手のなかにある未来と想いを閉じ込めて――衛は一度だけ開いた右手を見つめ、ぎゅっと握りしめた。

***Side M***

煌々と月が明るい夜。
アスファルトの敷かれた道に、ちかちかと切れかけの街灯がひらめくのを横目に、藤村衛は寮への道を歩いていた。
さっきまで温かい土の上に居たせいか、灰色の道路の踏み心地が妙に固く感じる。
それに苦笑しながら、衛が鞄にしまったままだったスマホを取りだすと、ディスプレイにはLINEの通知が届いていた。

「コウくん…?」

ぽつりと差出人の名前を零し、ディスプレイのロックを外して、メッセージの中身を確認する。
するとそこには昂輝らしい心配そうな文面とともに、最近一緒に買った動くネコのスタンプが添えられていた。

『衛。今日は遅くなっているようだが、打合せが長引いてるのか?
 夕飯は衛のリクエスト通りにパスタを用意しておいた。冷める前に帰ってこいよ。』(心配するネコのスタンプ)
『ありがとう。コウくん。もうすぐ寮だから待っててね!』(ほっぺにちゅーするネコのスタンプ)

恥ずかしげもなく、こんなスタンプを送ったら、受け取ったコウくんはどんな顔をするんだろう。
想った以上にわくわくする心をひた隠して、衛が送信ボタンを押すと、すぐに返事が返ってきた。

『待ってる。』

スタンプもなにもついていないのに、たったそのひと言をもらうだけで、衛の鼓動は今日の最大脈拍数を叩き出す。
うっかり赤くなってしまった顔を道ゆく人に見られていないかと、こっそり辺りを見渡して、衛はため息をついた。
――コウくんのひと言だけは、心臓に悪い…。
こんな風に見えない糸の先に居て、触れもしないのに、ここまで自分のことを嬉しくさせる昂輝は本当にずるい。
けれど『待ってる。』の言葉がやっぱり嬉しくて、衛は勢いに任せてほっぺにちゅーするネコのスタンプを三つ連続で送った。
――この返事は直接、寮の部屋で、コウくんの表情で見てみたい。
想った瞬間、楽しみが胸に膨らんだ衛はスマホをしまって、急いで寮へと向かった。
こんなことなら寄り道しなければよかったかな。とも想ったけれど、鞄の中に大事に入れてあるものを思い出して、想い直す。
――今日は大切な日だから。
今朝、昂輝と約束したのは『今日は俺の部屋で過ごそうね。』という他愛もない約束だった。
はたから見ればいつも通りの約束のように見える約束でも、今日だけは衛にとって特別な意味を持っている。
そしてその意味はきっとこの先、何度巡っても、何度抱きしめても、衛が昂輝のそばに居続ける限り変わらないはずだ。
衛が見えてきた寮の窓を見上げ、自分の部屋に灯りがついているのを確認しようとすると、ふとベランダに人影が映る。
と同時に、もしかしなくても外で衛の帰りを待っていたらしい、寮の前の道を覗きこんでいる昂輝と目が合った。

「…衛!」
「コウくん!」

衛が驚きのあまり大きな仕草で手を振って見せると、昂輝は持っていたスマートフォンを衛に翳して見せる。
それがさっきのスタンプへの返事のような気がして、衛は一気に頬がゆるむのを感じた。

「衛、早く上がってこい。」

普段から大きな声を出す方ではない昂輝が、嬉しそうにそう言うのを聴いて、衛ははやり出した胸を押さえる。
なにも言わなくても、昂輝が衛のことを欲してくれているようなその姿が、衛の心をぎゅっと掴んで離さなかった。
衛は昂輝にもう一度手を振り、「待ってて。」と声をかけてから、早足に寮のエントランスへ入る。
いつもなら部屋に帰る前に覗くポストの中身も放りだして、衛はエレベータに乗ると、部屋がある階のボタンを押した。
心がそわそわしているせいか、エレベータの速度がやけに遅く感じる。
これはある意味、とても幸せなことだとも思うけれど、そんな風に感じるようになった自分に苦笑してしまうことでもあった。
――コウくんが俺のことを待ってくれている。
それだけで世界の景色が変わって見えることを何度も想い知っているのに、今日もまた新しい景色に出逢った気がする。
あんな風にわざわざ外に出て、ずーっと待ってくれてるなんて。
思い出すだけで口もとが綻んでしまう情景を胸に大切にしまい、衛はエレベータを降りると、一目散に自分の部屋へ向かった。
鞄から鍵は出さず、わざとピンポーンとご機嫌な音で鳴る、呼び鈴を押す。
十秒くらい待つかな、と想った扉は三秒ほどで開かれ、部屋の明るい光とともに大好きな恋人が顔を出した。
目の前にあるのは自分の部屋の扉なのに、恋人が開けてくれるだけでこんなにも幸せなのかと、衛は喜びを噛みしめる。

「おかえり。衛。」
「ただいま、コウくん。」

言うなり部屋に押し入った衛は、昂輝をぎゅっと抱きしめ、あのスタンプのように昂輝の頬へとささやかなキスをした。
ちゅっと音を立てて、一回でもなく、三回でもなく、何度でも繰り返すと、腕のなかで昂輝がくすぐったそうに笑う。

「衛。」
「なあに〜?コウくん。」
「キス、しすぎだ。」
「そう?」

たいして聴く気もなく、昂輝の耳もとにキスをして、その流れで衛は昂輝のくちびるにもキスをした。
大事な大事な恋人のくちびるは何度キスをしても甘く感じる。
衛が昂輝の頭をやんわりと撫でながら、もう一度言い聞かせるように「ただいま。」と繰り返すと、背中に回っていた昂輝の腕がぎゅっと衛を抱きしめ、「おかえり。」と言葉を紡いだ。
――ああ、この瞬間を何度でも繰り返したい。
言葉にならない想いを強くなる腕の力に込め、衛は昂輝の身体をようやく手放した。

「部屋、合い鍵で入った?」
「…?そうだが。」
「嬉しい。」

せっかく離した身体をまた抱きしめて衛が笑うと、昂輝は衛の肩口にそっと顎を乗せ「俺も。」と呟いて聴かせてくれる。
こうしてお互いに共有するものが増えるたび、衛は昂輝が自分の恋人だということを感じられて、とても幸せだった。
昂輝に背中をぽんぽんと叩かれ、それを合図に衛の腕が昂輝を離す。
けれど、そのまま身体の下に流れていった指先は衛の指先を捕まえて、衛のことを離そうとはしなかった。
衛は繋がれた指先を優しく握り返し、導かれるままに、昂輝と並んで部屋の中に入る。
鞄を置いて部屋の中央に置かれたロ―テーブルを見ると、そこには二人分の夕食が並べて置いてあった。
――なんだかこういう風景は懐かしい。
昂輝のマンションで二人暮らしをしていたときにはいつもだったものが、今ではたまに見るものになっている。
それが寂しいかと言われれば、その隙間に剣介や涼太の姿があるので寂しくはないのだが、少し恋しくは感じていた。
衛は部屋の洗面所の前までくると昂輝と繋いだ手を名残惜しく離し、鞄を置いて、手を洗う。
そのあいだに昂輝が料理のラップを外して手早く夕食の準備をしながら、衛が戻ってくるのを待ってくれていた。

「コウくん、今晩もおいしそうな料理だね。」

差しだされたフォークとスプーンを手にして衛が口にすると、昂輝は首を傾げて笑う。

「そうでもないぞ?今日はアサリと春野菜が安かったから、それを混ぜただけの簡単なスープパスタだしな。」
「それでも、俺のリクエスト聞いてパスタにしてくれたってだけで、おいしさ百倍です!」

衛がもはや手癖のように昂輝の肩を抱き寄せると、昂輝はちょっと困ったような顔で衛を見つめた。

「衛。」
「ん?」
「くっついてくれるのは嬉しいんだが、夕食が食べられない…。」

ちゃんと嬉しいと前置きしてくれる義理堅さが好きだな、と想いながら、衛はわざと強く昂輝の身体を引き寄せる。
それに驚いた昂輝が傾いだ身体を衛に預けたままで、衛を見上げた。

「こういう俺は、嫌いですか…?」
「…っ!!!衛っ!!!」
「なーんてね。こういうのはあとでね。あとで。」

ばっと手を離して、少しだけ含みを持たせた言い方をするのは、昂輝にもっと自分を意識してほしいからだ。
こういう自分はずるいかな、と時々は思うけれど、昂輝が耳まで赤くなってくれるのを見るのが、衛は好きだった。
自分のちょっとした仕草や言葉で、ドキドキしてくれる人がいる。
それが自分の存在理由を示してくれているようで、衛はそれを見るたび、その相手が昂輝で良かったな、と想うのだ。
衛は顔を俯けている昂輝の横顔を愛しげに見つめてから髪を撫でると、パスタをひと口分、フォークに巻きつけて頬張った。
――やっぱり、コウくんの味付けは優しい。
絶妙な柔らかさになっている春野菜とアサリの旨味が滲み出たスープをそれぞれ口にしながら、衛はふわりとした温もりに浸る。
その横で昂輝はゆっくりとパスタに口をつけていたけれど、衛にはその様子さえ大切なものに想えて、そっと昂輝の頭を撫でた。

「衛…?」
「大好きだよ。」

まるで写真でも撮るように口にした衛に、昂輝ははにかんだような微笑みを見せ、衛の肩に額を乗せる。

「俺もだ…。」

静かな空間に舞い降りたのは天使の羽根のような恋人の睦言。
衛は昂輝の肩をやんわりと抱き寄せると、自分のフォークに巻きついていたパスタを昂輝の口もとに差し出したのだった。

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